趙佖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。210.5.174.98 (会話) による 2018年8月17日 (金) 07:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ナビゲーションに移動 検索に移動

趙 佖(ちょう ひつ、1082年 - 1106年)は、北宋神宗の九男。

経歴

才人武氏(後に貴妃)の息子として生まれた。賢和帝姫の同母兄である。

元豊5年7月に生まれ、元豊6年(1083年)閏6月、儀国公に封ぜられた。幼少の頃、急驚風(てんかん)で一度病状が悪化し、名医銭乙により一命を取り留めた。元豊8年(1085年)4月、兄の哲宗により大寧郡王に封ぜられた。紹聖2年(1095年)3月、申王に進封された。

元符3年(1100年)に哲宗が崩じた際、嗣子がなかったので、長弟の趙佖を推す重臣もいたが、皇太后向氏が目疾[1]を口実に反対した。同年3月、帝位を継いだ弟の徽宗により陳王に再進封された。崇寧5年11月、薨去し、呉王の位を追贈され、「栄穆」とされた。

家族

靖康の変後、以下に記されている人物はいずれもに連行された。

  • 息子:趙有奕。和義郡王に封ぜられた。『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで金で健在であったという。
  • 孫娘:趙琪花、趙氏
  • 息子の側室[2]:林霊好。連行途中に死去した。
  • 息子の側室:毛久香

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『靖康稗史箋證』

脚注

  1. ^ 急驚風の後遺症で斜視だったと思われる。
  2. ^ 趙有奕の正室は早世した。