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ワシーリー・ヴォリスキー

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ワシーリー・チモフェーエヴィチ・ヴォリスキーロシア語: Василий Тимофеевич Вольский1897年3月10日 - 1946年2月22日)は、ソ連の軍人。戦車兵大将。

経歴

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モスクワ出身。1916年、ロシア帝国軍に召集され、第一次世界大戦に従軍。

十月革命後、地区軍事委員部、1918年6月からモスクワ・チェーカーで働いた。ロシア内戦時、連隊及び師団の政治委員、南部ロシア語版及び南西戦線の政治委員補佐を務め、デニーキンコルチャーク、アタマン・アンネンコフの部隊と戦った。内戦終結後、騎兵中隊、騎兵連隊、機械化連隊を指揮した。1926年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミー、1929年、高等指揮要員完全化課程、1930年、装甲戦車課程を修了。その後、労農赤軍機械化・自動車化局で働き、第6独立機械化旅団を指揮した。1939年5月、労農赤軍機械化・自動車化軍事アカデミー戦列部隊担当学校長補佐。

独ソ戦勃発とともに、第21軍司令官補佐、南西戦線自動車装甲部隊担当司令官補佐(1941年7月~12月)を務めた。1942年、自動車装甲戦車総局副総監(~4月)、クリミア及び北カフカーズ戦線の戦車部隊担当副司令官(1942年4月~10月)。スターリングラード攻防戦時、第4機械化軍団(後に第3親衛機械化軍団)を指揮した(1942年10月~1943年6月)。1943年6月から赤軍装甲戦車・機械化部隊副司令官。1944年8月~1945年3月、第5親衛戦車軍司令官となり、バルト諸国の解放と東プロシア作戦に参加した。

パーソナル

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レーニン勲章2個、赤旗勲章2個、一等スヴォーロフ勲章、二等スヴォーロフ勲章を受章。