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このウィキでページ「1672年のヨーロッパ」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。 バロック(仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco…33キロバイト (4,969 語) - 2024年2月2日 (金) 08:38
- 2千年紀 (各地域の主な政体(時代区分)の節)ユーラシア大陸の大部分を征した連合国家モンゴル帝国の興亡 テュルク系イスラム王朝としてセルジューク朝に続き、オスマン帝国が西アジア・東ヨーロッパに台頭(〜17世紀) ペストの大流行 14世紀のヨーロッパを始めとするユーラシア大陸で猛威を振るい、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二にあたる約2,000万から3…26キロバイト (2,693 語) - 2024年10月4日 (金) 04:46
- ヨーロッパの紛争一覧(ヨーロッパのふんそういちらん)は、ヨーロッパの国同士の戦争や内戦、ヨーロッパで起きたヨーロッパの国と非ヨーロッパの国との戦争や、ヨーロッパも舞台となった世界的な紛争を年代順に掲載している。 ヨーロッパにはいろいろな定義があり、東と南東の…38キロバイト (3,749 語) - 2023年7月29日 (土) 06:29
- ウクライナ (カテゴリ ヨーロッパの国)年から祝日ではなくなった。他国におけるヨーロッパ戦勝記念日である5月8日は、ウクライナでは「追悼と和解の日」に定められている。2024年以降5月8日は対独戦勝記念日として祝日に定められ、5月9日はヨーロッパの日になる。 ウクライナ国内でも他のヨーロッパ諸国同様、サッカーが圧倒的に1番人気の…213キロバイト (24,427 語) - 2024年11月3日 (日) 13:37
- 植物園 (カテゴリ 曖昧さ回避の必要なリンクのあるページ)ヘレンハウゼン王宮庭園ハノーバー、1666; デルクリスチャン-Albrechts-理学部ZUキール植物園、1669; ベルリン植物園、1672年)、スイス(チューリッヒ旧植物園、1560年; バーゼル、1589年)。イングランド(オックスフォード大学植物園、1621; チェルシー薬草園、1673)。スコットランド(エジンバラ…69キロバイト (7,416 語) - 2024年7月13日 (土) 14:42
- 北海 (カテゴリ ヨーロッパの海域)年のウェストミンスター条約においてイギリス側が勝利を確定した。この後も1665年から1667年にかけて第二次英蘭戦争、1672年から1674年にかけて第三次英蘭戦争が勃発した。この時期はまだオランダの経済力が他を圧していたものの、やがてオランダ経済は衰退の道をたどるようになり、18世紀には北海の…40キロバイト (5,518 語) - 2024年7月14日 (日) 14:49
- のヨーロッパ全域における政治、経済の統合に向かって一層の弾みがつけられた。1993年にECは欧州連合(EU)に発展した。EUはヨーロッパにおける政治、経済の統合を目指して様々な方針を打ち出した。ヨーロッパを単一の市場とみなして、人、モノ、お金の流通を自由化するという方針は経済分野での統合の…122キロバイト (17,797 語) - 2024年10月5日 (土) 23:16
- 戴冠式 (カテゴリ 出典を必要とする記事/2019年9月)の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた。 ウプサラ大聖堂 - 中世から1672年までスウェーデン王・王妃の戴冠式が行われた。その後、戴冠式は行われなかったが、1872年よりストックホルム大聖堂(英語版)で行われる事となった。 ノートルダム大聖堂 (ランス) - 歴代フランス国王の成聖式が行われた。…13キロバイト (1,564 語) - 2024年1月8日 (月) 09:33
- バルト帝国 (カテゴリ 17世紀のヨーロッパ)ヨーロッパの中でその存在感を示す余地はなかった。すでに小国に転落していたデンマークと共に、スウェーデンはヨーロッパの情勢に対しては中立主義を目指すようになり、19世紀以後のヨーロッパ諸国による帝国主義とは一線を画すこととなる。 スウェーデンのバルト帝国の基礎となったの…37キロバイト (4,609 語) - 2024年9月29日 (日) 18:54
- ケープ植民地 (カテゴリ アフリカの歴史関連のスタブ項目)年にイギリス領植民地となった。 南アフリカにおいて、オランダは最初のヨーロッパ人植民者になろうと計画していた。なお、彼らの行動は、後世においてアフリカ大陸へのヨーロッパ列強の侵攻を広範にもたらす結果となった。 オランダ人による最初のケープ定住は、1652年…22キロバイト (2,592 語) - 2024年8月13日 (火) 15:44
- 17世紀 (カテゴリ 出典を必要とする記事/2023年3月)17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。 この時代のヨーロッパでは小氷期による世界レベルでの寒冷化が原因で17世紀の危機と呼ばれる混乱が生じ、各国で飢饉、戦争、内乱が相次いだ。この結果、イギリスでは清教徒革命と名誉革命が起きて議会…166キロバイト (20,004 語) - 2024年11月2日 (土) 23:08
- ルイ14世 (フランス王) (カテゴリ 17世紀ヨーロッパの君主)ルイ(1667年 - 1683年) - ヴェルマンドワ伯 寵姫モンテスパン侯爵夫人との間には7子が生まれた。 不明(1669年 - 1672年) ルイ・オーギュスト(1670年 - 1736年) - メーヌ公 ルイ・セザール(1672年 - 1683年) - ヴェクサン伯 ルイーズ・フランソワーズ(1673年 -…118キロバイト (16,031 語) - 2024年9月25日 (水) 05:18
- 狐潰し (カテゴリ ヨーロッパのスポーツ)フリードリヒ・アウグスト1世のほかに狐潰しを行った領主として、神聖ローマ皇帝レオポルト1世が知られる。1672年3月にレオポルト1世によりウィーンで開かれた狐潰し大会について、現場で目撃したスウェーデン公使のエザイアス・フォン・プーフェンドルフ(de, ザミュエル・フォン・プーフェンドルフの…7キロバイト (1,087 語) - 2024年2月11日 (日) 09:39
- オスマン帝国 (カテゴリ 出典を必要とする節のある記事/2020年9月)vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年 林佳世子 『オスマン帝国500年の平和』 講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫、2016年 鈴木董 『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会、1993年 坂本勉 『トルコ民族の世界史』 慶應義塾大学出版会、2006年 坂本勉・佐藤次高・鈴木董編…128キロバイト (16,693 語) - 2024年11月3日 (日) 05:52
- 18世紀 (カテゴリ 出典を必要とする記事/2012年3月)の労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダの自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。 アジアの大帝国の…142キロバイト (15,126 語) - 2024年11月3日 (日) 10:33
- 英蘭戦争 (カテゴリ 17世紀のヨーロッパ)チャールズ2世は1672年から1674年にかけて、フランスの始めた仏蘭戦争に予定通り協力する局地戦の形で第三次英蘭戦争を開始した。戦争初期の1672年にイングランドはヨーク公・サンドウィッチが艦隊を指揮、フランスとの連合大艦隊を組織してオランダ上陸作戦の…22キロバイト (2,911 語) - 2024年10月18日 (金) 08:31
- オリンポス山 (カテゴリ 英語版ウィキペディアからの翻訳を必要とする記事)ISSN 1672-6316. https://link.springer.com/10.1007/s11629-022-7866-8. ^ アンソニー・テイラー『世界の聖地バイブル : パワースポット&スピリチュアルスポットのガイド決定版』ガイアブックス、産調出版、33ページ、2011年、ISBN…5キロバイト (476 語) - 2024年10月21日 (月) 05:25
- の影響を強く受けている。 この時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたことであり、画家の多くがさまざまなジャンルに特化して絵画を描いた。このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年の仏蘭戦争までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。…63キロバイト (9,270 語) - 2024年4月15日 (月) 11:11
- 近世ヨーロッパの軍服(きんせいヨーロッパのぐんぷく)は、17世紀からナポレオン戦争までのヨーロッパ諸国(ロシア、オスマン帝国含む)における軍服の変遷と特徴について述べる。 本稿で扱う時期は、ヨーロッパ諸国が常備軍を整備・発達させることにより絶対王政を確立させ、その一環として統一的な軍服が制定された1…3キロバイト (276 語) - 2018年3月30日 (金) 13:10
- 「蛇たち (Serpens)」は1672年版では「執達吏たち (Sergens)」となっており、ブランダムールはこれを支持。ラメジャラーも一応支持(Brind'Amour[1996], Lemesurier [2003])。 ブランダムールは、イタリアのレオンティーニの略とする(Brind'Amour[1996])。
- 19世紀のヨーロッパで確立した原則で、「疑わしきは被告人の利益に」(in dubio pro reo)という原則がある。 なお、日本での判例の言い回しは「疑わしいときは被告人の利益に」である(最決昭50・5・20 刑集 29巻 5号 177頁 <百選 A55> 〔白鳥事件〕)。白鳥事件の判例では、この原則を「刑事裁判の鉄則」と呼んだ。