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  • に弟・松平直丘を末期養子に願い出たが認められず、一時廃藩となったが、1か月後に隆政の遺領1万石が直丘に与えられ、相続が認められた。 3代・松平直員は暗愚で、藩政を混乱に陥れている。4代・松平直道は嗣子がなかったため、家臣の平山弾右衛門が自身の子を藩主の落胤と称して藩の乗っ取りを企てた。しかし本家松江…
    4キロバイト (604 語) - 2023年4月7日 (金) 12:16
  • 徳川家定のサムネイル
    ずかに儀容を失はざるのみなり」と記されている。松平春嶽も「凡庸の中でも最も下等」と酷評したと伝わる。しかし、幕臣であった朝比奈昌広は明治期に「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(春嶽)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と弁護している。…
    17キロバイト (2,502 語) - 2024年5月21日 (火) 16:04
  • 織田信忠のサムネイル
    譜』と同じ。「崇福寺宛信忠書状」では実母は不明とする。信長の正室濃姫が信忠を養子にしたともいう(『勢州軍記』)。乳母は慈徳院(滝川氏)。幼名は奇妙()。元服して、菅九郎(勘九郎とも)と称した。 永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武…
    33キロバイト (4,957 語) - 2024年6月15日 (土) 01:47
  • 佐竹義峯のサムネイル
    大夫に叙任する。享保2年(1717年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。延享元年(1744年)12月16日、左少将に任官する。 義格と違って暗愚な人物で、倹約令を廃止して贅の限りを尽くし、藩財政がそれにより危うくなると家臣の知行を借り上げるなどして凌ぐ有様であった。寛延元年(1748年)には…
    6キロバイト (728 語) - 2024年6月16日 (日) 16:36
  • 北条氏政のサムネイル
    ではない。秀吉に徹底抗戦したことについては、これまでは氏政が無能であり、時流、及び秀吉との圧倒的な国力の差を把握できていないことが原因という、氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流であった。一方で、東国の武家は源頼朝以来中央政権から自立するような志向が強く、そうした、「東国武家社会の伝統性」を、徹…
    47キロバイト (7,822 語) - 2024年6月19日 (水) 07:49
  • 西晋のサムネイル
    武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の皇太子司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた。ところが武帝は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺…
    36キロバイト (5,696 語) - 2023年11月28日 (火) 02:11
  • 松平定安のサムネイル
    て誕生した。幼名は済三郎、のち初名の徳広(のりひろ)を名乗る。 嘉永6年(1853年)9月5日、松江藩の第9代藩主・松平斉貴(隠居後、斉斎に改名)が暗愚であったために家臣団や縁戚から強制隠居させられた後を受けて、その婿養子として家督を継ぐこととなった。同年12月23日、13代将軍・徳川家定の偏諱を授…
    7キロバイト (971 語) - 2024年4月25日 (木) 08:23
  • 豊後の大友氏が勢力を伸張し始めていた。菊池武経が出奔した後は、分家から詫摩武安の子武包を迎えたが、永正17年、大友義鑑は菊池氏家臣団と謀って、武包は暗愚であると言う理由で放逐。代わって弟・大友重治が菊池家に入って継ぎ、「菊池義宗(義武)」と改名して守護職も称した。義武は同年、相良氏に所領安堵の書状を送っている。…
    7キロバイト (1,199 語) - 2020年5月18日 (月) 01:33
  • 成田氏のサムネイル
    成田氏の菩提寺である龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。後世の軍記では家時の嫡男は早世し、次子で跡を継いだ資員は暗愚であったといい、資員の子・顕泰が幼くして継いだという。しかし家時や資員の名は後世史料にしかみえず、同時代史料では確認できない。…
    14キロバイト (1,884 語) - 2023年11月22日 (水) 09:29
  • マイケル・K.ヤング『「法」は日米を隔てるか』日本貿易振興会 1989 ジェトロ叢書 ジョン・アッシュベリー『波ひとつ』書肆山田 1991 高村光太郎「暗愚小伝」A Brief History of Imbecility. University of Hawaii Press, c1992. 高橋睦郎Sleeping…
    5キロバイト (475 語) - 2021年1月20日 (水) 04:17
  • 有馬頼咸のサムネイル
    ながらも藩内抗争の中で枯渇させた点に批判が寄せられる。藩主主導の改革をおこない名君として称揚される異母兄・頼永と比較され、藩政を顧みず遊興にふけった暗愚な藩主と見られることもある。 頼咸は砲術に関心を持ち、鳥居流ほか諸流派を研究した。慶応3年(1867年)には『千歳流伝書』を著し、自ら千歳流砲術を創…
    12キロバイト (1,872 語) - 2024年5月31日 (金) 18:47
  • 東晋のサムネイル
    265年12月に曹魏から禅譲を受けて建てられた西晋は、280年3月に江南の孫呉を滅ぼして中国を統一した。しかし始祖の武帝(司馬炎)が290年4月に崩御すると、後継者の司馬衷(恵帝)が暗愚なこともあって皇族間で流血の内紛、八王の乱が開始されて西晋は大混乱に陥った。八王の乱末期の304年には匈奴の大首長劉淵により漢(後の前趙)が河北に建…
    32キロバイト (4,728 語) - 2023年11月28日 (火) 02:10
  • ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)のサムネイル
    - 1378年)を兼ね、ルクセンブルク公としてはヴェンセラス2世(在位:1383年 - 1388年)(仏:Venceslas II)。暗愚で数々の失政を犯したためローマ王を廃位され、ボヘミアでも貴族層の対立で王権を弱体化させルクセンブルク家の衰退を招き、怠慢王(der…
    21キロバイト (2,712 語) - 2024年5月7日 (火) 13:18
  • 前田利常のサムネイル
    に、前田家は養子縁組で血のつながりがない者を含め、かぶき者のエピソードに事欠かない家柄でもある。 幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったという。家臣が見かねて手鏡を差し出すと「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と言ったと伝わる(井…
    26キロバイト (4,218 語) - 2024年6月17日 (月) 02:53
  • 北条高時のサムネイル
    時政に対して7代の間北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で7代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する。『太平記』は、高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている。…
    29キロバイト (4,058 語) - 2024年7月8日 (月) 12:21
  • フェードル(2005年) S高原から(1999年・2004年) 雲母坂(2001年) さよならだけが人生か(2001年) 隣にいても一人(2003年) 暗愚小傳(2003年) 御前会議(2005年) 東京タンバリン『タンゴ』(2000年・2002年) 五反田団 びんぼう君(2000年) 夢のような鬼(2000年)…
    17キロバイト (1,960 語) - 2024年4月21日 (日) 11:33
  • 、あるいはそのライバルとして取り上げられたため能力値が上がった武将もいる。さらに、それ以外の要因で再評価された武将もいる。例えば、今川氏真はかつては暗愚な大名とされ、政治や戦闘などの能力値は低く付けられていたが、政治的手腕や当時の情勢が考慮されているのか『革新』以降では政治だけはやや高く設定され、尼…
    38キロバイト (4,706 語) - 2024年5月20日 (月) 14:33
  • 加藤嘉明のサムネイル
    大正6年(1917年)11月17日、大正天皇が特旨をもって嘉明に従三位を追贈した。 嘉明の死後、家督は嫡男の明成が継いだが、明成が暗愚なために家老・堀主水ら一党が出奔してそれを追討するという事件が起こって、私闘を禁じた江戸幕府の介入を招き、減封ののち嗣子を立てて家名存続との裁定とな…
    25キロバイト (3,842 語) - 2024年5月22日 (水) 13:04
  • では川中島の戦いに加わらず、戦死もしていない)。 長尾晴景(ながお はるかげ) 演:山本耕一 景虎の異母兄。無気力で酒色に溺れるなど、救いようのない暗愚な人物として描かれている。 藤紫(ふじむらさき) 演:藤村志保 晴景の愛妾。服部玄鬼が京から連れてきた妖艶な美女。晴景の寵愛を笠に着た横暴な振る舞い…
    34キロバイト (4,473 語) - 2024年6月14日 (金) 09:25
  • 斎藤龍興のサムネイル
    った竹中重治を『甫庵太閤記』以降高く評価する流れの中で、その乗っ取り行為に「主君龍興を諫めるためだった」という理由付けがされたために、必然的に龍興は暗愚と扱われることとなった。 斎藤氏以来の家臣団を一色氏の家臣団の名字に改名させた。(日根野弘就が一色氏守護代の延永氏を名乗るなど)…
    21キロバイト (3,445 語) - 2024年6月21日 (金) 04:48
  • 春信勝侍座の折ふし、中庸に、道はそれ行はるべからずといふは、いかにして行はれぬぞと御尋あり、道春、道の行はれざるには侍らず、たゞ孔子の頃の人君、みな暗愚にして、行ふことの能はざるなりと申す、さらば中といふはいかにと問ひ給へば、おほよそ中と申すは、一定し難き事にて、一尺の中は一丈の中に非ず、一国の中は
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