「ムント塔」の版間の差分

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'''ムント塔'''(ムントとう)または'''ムントトーレン'''(Munttoren)は、[[オランダ]]の[[アムステルダム]]にある[[塔]]である。[[アムステル川]]とシンゲル運河の合流点に位置する、六差路のムント広場(Muntplein)の西に建っている。


「ムント(Munt)」とは「貨幣、鋳貨する」を意味し、[[1672年]]に[[フランス]]がアムステルダムを侵略した際、この塔を貨幣鋳造所として利用していたに由来する。
「ムント(Munt)」とは「貨幣、鋳貨する」を意味し、[[1672年]]に[[フランス]]がアムステルダムを侵略した際、この塔を貨幣鋳造所として利用していたことに由来する<ref name=Kotori>{{Cite book|和書 |year = 2016 |title = ことりっぷ海外版 ベルギー・オランダ ルクセンブルク |publisher = [[昭文社]] |page = 69 |isbn = 978-4-398-15472-9}}</ref>


塔は特別な許可がないかぎり、基本的に登ることは出来ない。1階はショップになっている。
塔は特別な許可がないかぎり、基本的に登ることはできない。1階はショップになっている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[17世紀]]までアムステルダムではシンゲル運河沿いに城壁が築かれ、街を取り囲んでいた。17世紀になり街は発展し城壁が取り払われたが、この塔だけが残された。後にこの塔の上に時計台が取り付けられ現在の姿となった。基の塔自体は15世紀頃に建てられたである。
[[17世紀]]までアムステルダムではシンゲル運河沿いに城壁が築かれ、街を取り囲んでいた。17世紀になり街は発展し城壁が取り払われたが、この塔だけが残された。後にこの塔の上に時計台が取り付けられ現在の姿となった。基の塔自体は15世紀頃に建てられたものである。


== 時計台 ==
== 時計台 ==
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2018年4月7日 (土) 08:33時点における最新版

ムント塔

ムント塔(ムントとう)またはムントトーレン(Munttoren)は、オランダアムステルダムにあるである。アムステル川とシンゲル運河の合流点に位置する、六差路のムント広場(Muntplein)の西に建っている。

「ムント(Munt)」とは「貨幣、鋳貨する」を意味し、1672年フランスがアムステルダムを侵略した際、この塔を貨幣鋳造所として利用していたことに由来する[1]

塔は特別な許可がないかぎり、基本的に登ることはできない。1階はショップになっている。

歴史[編集]

17世紀までアムステルダムではシンゲル運河沿いに城壁が築かれ、街を取り囲んでいた。17世紀になり街は発展し城壁が取り払われたが、この塔だけが残された。後にこの塔の上に時計台が取り付けられ現在の姿となった。基の塔自体は15世紀頃に建てられたものである。

時計台[編集]

ムント塔のカリヨン

黒の文字盤に白文字の時計。38のカリヨン(組鐘)をもつ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『ことりっぷ海外版 ベルギー・オランダ ルクセンブルク』昭文社、2016年、69頁。ISBN 978-4-398-15472-9