「劉継元」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
テンプレート、本文改変、カテゴリ改変 |
テンプレート、本文改変、カテゴリ改変 |
||
7行目: | 7行目: | ||
|王朝 =北漢 |
|王朝 =北漢 |
||
|在位期間 =[[968年]] - [[979年]] |
|在位期間 =[[968年]] - [[979年]] |
||
|都城 = |
|都城 = |
||
|諱 =劉継元 |
|諱 =劉継元 |
||
|字 = |
|字 = |
||
22行目: | 22行目: | ||
|注釈 = |
|注釈 = |
||
}} |
}} |
||
'''劉 継元'''(りゅう けいげん)は、[[五代十国時代|十国]][[北漢]]の第4代皇帝。 |
'''劉 継元'''(りゅう けいげん)は、[[五代十国時代|十国]][[北漢]]の第4代(最後)の皇帝。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
生母は世祖[[劉崇|劉旻]]の娘で、[[薛釗]]に嫁いで少主[[劉継恩]]を儲けたが、薛釗が劉旻の兄[[劉知遠]]([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗[[劉鈞]]に養子として迎えられた。 |
生母は世祖[[劉崇|劉旻]]の娘で、[[薛釗]]に嫁いで少主[[劉継恩]]を儲けたが、薛釗が劉旻の兄[[劉知遠]]([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗[[劉鈞]]に養子として迎えられた。 |
||
[[天会 (北漢)|天会]]12年([[968年]])、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]によって皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格 |
[[天会 (北漢)|天会]]12年([[968年]])、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]によって皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母である郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。 |
||
[[974年]]には広運と改元、翌年には[[遼]]によって大漢英武皇帝に冊封されている。 |
[[974年]]には広運と改元、翌年には[[遼]]によって大漢英武皇帝に冊封されている。 |
||
41行目: | 41行目: | ||
{{DEFAULTSORT:りゆう けいけん}} |
{{DEFAULTSORT:りゆう けいけん}} |
||
[[Category:十国の君主]] |
[[Category:十国の君主]] |
||
[[Category:中国の皇帝]] |
|||
[[Category:北漢|けいけん]] |
[[Category:北漢|けいけん]] |
||
[[Category:宋代の人物]] |
[[Category:宋代の人物]] |
2012年12月27日 (木) 05:53時点における版
英武帝 劉継元 | |
---|---|
北漢 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 北漢 |
在位期間 | 968年 - 979年 |
姓・諱 | 劉継元 |
諡号 | 英武帝 |
生年 | 不詳 |
没年 |
淳化2年12月18日 (992年1月25日) |
父 | 何氏 |
母 | 世祖の娘 |
后妃 | 馬皇后 |
年号 |
天会 : 968年 - 973年 広運 : 974年 - 979年 |
劉 継元(りゅう けいげん)は、十国北漢の第4代(最後)の皇帝。
生涯
生母は世祖劉旻の娘で、薛釗に嫁いで少主劉継恩を儲けたが、薛釗が劉旻の兄劉知遠(後漢の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗劉鈞に養子として迎えられた。
天会12年(968年)、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が侯霸栄により殺害されると、司空である郭無為によって皇帝に推戴された。即位後は遼との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母である郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。
974年には広運と改元、翌年には遼によって大漢英武皇帝に冊封されている。
広運6年(979年)、華南全土を支配下におさめた宋は北征を開始、太宗趙炅の親征が実施された。遼は北漢へ援軍を送るが宋軍の前に敗退し、英武帝は宋に投降、ここに北漢は滅亡した。
宋に臣属した後は右衛上将軍に任じられ、彭城郡公に封じられた。太平興国6年(981年)には彭城公に、雍熙3年(986年)には保康軍節度使に任じられている。
淳化2年(992年)に病死すると、中書令が追贈されると共に彭城郡王に追封された。
|
|