「ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ」の版間の差分
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2012年7月14日 (土) 17:50時点における版
ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ(Johanna Charlotte von Anhalt-Dessau, 1682年4月6日 デッサウ - 1750年3月31日 ヘルフォルト)は、ドイツのアンハト=デッサウ家の侯女で、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムの妻。
アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世と、その妻でオランダ総督・オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘であるヘンリエッテ・カタリーナの間の末娘として生まれ、両親に大切にかしずかれて育った。
1699年1月25日にオラニエンバウムで、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後のプロイセン王)の異母弟であるブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムと結婚した。辺境伯夫妻はベルリンに居館を所有していたにもかかわらず、シュヴェート(現在のブランデンブルク州シュヴェート/オーダー)の所領で暮らした。1711年に若くして夫と死別するとベルリンに移り、子供たちの養育に専念した。
1729年、ヨハンナは帝国修道院の一つで、ブランデンブルク=プロイセンの保護下に置かれていたヘルフォルト女子修道院(Stift Herford)の修道院長に就任した。しかし最初の頃はブーフホルツに暮らしており、ヘルフォルトに移ったのは1735年になってからであった。1750年に死去し、遺骸はヘルフォルト修道院内の教会のドームに安置された。
子女
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(1700年 - 1771年) - ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯
- フリーデリケ・ドロテア・ヘンリエッテ(1700年 - 1701年)
- ヘンリエッテ・マリー(1702年 - 1782年) - 1716年、ヴュルテンベルク公世子フリードリヒ・ルートヴィヒ(ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒの一人息子)と結婚
- ゲオルク・ヴィルヘルム(1704年)
- フリードリヒ・ハインリヒ(1709年 - 1788年) - ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯
- シャルロッテ(1710年 - 1712年)
参考文献
- Johann Samuel Ersch: Allgemeine encyclopädie der wissenschaften und künste in alphabetischer folge, 2. Sektion, 21. Teil, Leipzig, 1842, S. 477 f.