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'''日下部 金兵衛'''(くさかべ きんべえ、[[天保]]12年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1841年]][[11月27日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[4月19日]])は日本の[[写真家]]。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。[[甲斐国]]([[山梨県]])出身。
'''日下部 金兵衛'''(くさかべ きんべえ、[[天保]]12年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1841年]][[11月27日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[4月19日]])は日本の[[写真家]]。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。[[甲斐国]]([[山梨県]])出身。


金兵衛は[[フェリーチェ・ベアト]]、続いて[[ライムント・フォン・シュティルフリート]]ので写真の着色技師として働いていた。1867年にはベアトの弟子として[[上海]]に撮影に出かけている。
[[1863年]]([[文久]]3年)頃から、横浜の[[フェリーチェ・ベアト]]のスタジオで写真の着色技師として働き始めた。[[1867年]]([[慶応]]3年)にはベアトの弟子として[[上海]]に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、[[ライムント・フォン・シュティルフリート]]の下で働いた


1881年頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は1890年頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。1885年頃、ベアトとシュティルフィールド、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。1904年の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、1906年に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。
[[1881年]]([[明治]]13年)頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は[[1890年]](明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。[[1885年]](明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールド、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。[[1904年]](明治36年)の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、[[1906年]](明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。


1912-1913年頃に写真の世界から引退した。彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されてる。
彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。

[[1912年]]([[大正]]元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月19日]]、92歳で死亡した。


==伝記==
==伝記==
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* [http://www.getty.edu/vow/ULANFullDisplay?find=kusakabe&role=&nation=&prev_page=1&subjectid=500071820 Union List of Artist Names, s.v. "Kimbei, Kusakabe"]. Accessed 3 April 2006.
* [http://www.getty.edu/vow/ULANFullDisplay?find=kusakabe&role=&nation=&prev_page=1&subjectid=500071820 Union List of Artist Names, s.v. "Kimbei, Kusakabe"]. Accessed 3 April 2006.
*[http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/kiyou/52/pdf/12-fujiwara.pdf 藤原秀之「明治期彩色写真帖」、早稲田大学図書館]
*[http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/kiyou/52/pdf/12-fujiwara.pdf 藤原秀之「明治期彩色写真帖」、早稲田大学図書館]
*斎藤多喜夫著「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004年)。ISBN: 978-4642055758
*横浜開港資料館編「彩色アルバム 明治の日本―「横浜写真」の世界」有隣堂(2003年)。ISBN: 978-4896601763


==外部リンク==
==外部リンク==

2010年12月5日 (日) 06:11時点における版

日下部金兵衛撮影の着色写真。

日下部 金兵衛(くさかべ きんべえ、天保12年10月15日1841年11月27日) - 昭和9年(1934年4月19日)は日本の写真家。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。甲斐国山梨県)出身。

1863年文久3年)頃から、横浜のフェリーチェ・ベアトのスタジオで写真の着色技師として働き始めた。1867年慶応3年)にはベアトの弟子として上海に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ライムント・フォン・シュティルフリートの下で働いた。

1881年明治13年)頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は1890年(明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や銀座にも支店を開設した。1885年(明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールド、および内田九一が撮影したネガを引き継いだ。また、長崎の上野彦馬のネガもいくらか引き継いでいる。1904年(明治36年)のセントルイス万国博覧会に作品を出展、1906年(明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。

彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。

1912年大正元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、1932年昭和7年)4月19日、92歳で死亡した。

伝記

  • 中村啓信著「明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛」国書刊行会(2006年)。ISBN: 978-4336047724

ギャラリー

参考

外部リンク