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== 連尺通りの歴史 ==
== 連尺通りの歴史 ==
家康の祖父[[松平清康]]の時代、その家臣[[大久保忠茂]]が市銭免除の楽市を許したのを契機に、各方面から商人が集まりこの地に市を形成した。荷物を運ぶのに背負い具の「連尺<ref>連著・連着・連雀・連寂などとも表記する。</ref>」を用いたので、江戸初期にこの市の通りを連尺町と呼ぶようになった。
[[徳川家康]]の祖父[[松平清康]]の時代、その家臣[[大久保忠茂]]が市銭免除の[[楽市]]を許したのを契機に、各方面から商人が集まりこの地に市を形成した。荷物を運ぶのに背負い具の「連尺<ref>連著・連着・連雀・連寂などとも表記する。</ref>」を用いたので、[[江戸時代]]初期にこの市の通りを連尺町と呼ぶようになった。


家康の関東移封後、[[田中吉政]]が城主になって岡崎の城下町を整備し、東海道を岡崎城下の連尺町に通してこれを保護すると、次第に商業が発展していった。とくに呉服商・木綿商・荒物・酒屋・油屋・小間物など武士の日用品や衣類を売る店が軒を連ねて賑わいをみせた。
家康の関東移封後、[[田中吉政]]が城主になって岡崎の城下町を整備し、[[東海道]]を岡崎城下の連尺町に通してこれを保護すると、次第に商業が発展していった。とくに呉服商・木綿商・荒物・酒屋・油屋・小間物など武士の日用品や衣類を売る店が軒を連ねて賑わいをみせた。


[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月20日]]未明に岡崎空襲を受け全町が焼失。戦後の町名変更により、上連尺は本町となり、現在の連尺通はかつての中連尺と下連尺の地域のみとなった。
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月20日]]未明に[[岡崎空襲]]を受け全町が焼失。戦後の町名変更により、上連尺は本町となり、現在の連尺通はかつての中連尺と下連尺の地域のみとなった。


== 連尺通りのデザイン ==
== 連尺通りのデザイン ==

2010年11月29日 (月) 18:56時点における版

連尺通り

連尺通り(れんじゃくどおり)とは、愛知県岡崎市連尺通を東西に通る道路の通称名である。道路の名称としては「連尺通り」、地名としては「連尺通」と表記されている。連尺通りの全線が岡崎城下二十七曲りの一部に含まれている。

連尺通りの歴史

徳川家康の祖父松平清康の時代、その家臣大久保忠茂が市銭免除の楽市を許したのを契機に、各方面から商人が集まりこの地に市を形成した。荷物を運ぶのに背負い具の「連尺[1]」を用いたので、江戸時代初期にこの市の通りを連尺町と呼ぶようになった。

家康の関東移封後、田中吉政が城主になって岡崎の城下町を整備し、東海道を岡崎城下の連尺町に通してこれを保護すると、次第に商業が発展していった。とくに呉服商・木綿商・荒物・酒屋・油屋・小間物など武士の日用品や衣類を売る店が軒を連ねて賑わいをみせた。

1945年昭和20年)7月20日未明に岡崎空襲を受け全町が焼失。戦後の町名変更により、上連尺は本町となり、現在の連尺通はかつての中連尺と下連尺の地域のみとなった。

連尺通りのデザイン

  • 各交差点角の歩道には、江戸時代からの連尺通りのシンボル「フクラスズメ」の絵と、「レン」(※竹かんむりに「斂」の字)と読める刻字が施されている。
  • またローマ字で「RENJAKU」と書かれた銀色のモダンなデザインのモニュメントが歩道に建てられている。

交通規制

  • 全線にわたり、大型貨物自動車等通行止め(06:00-23:00)、最高速度40km/時、駐車禁止。

接続する路線

沿線・周辺

  • 籠田公園
  • まる庄呉服店

参考

  • 『連尺町物語』(岡崎市連尺町史編纂委員会)

脚注欄

  1. ^ 連著・連着・連雀・連寂などとも表記する。

関連項目