「アルブレヒト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)」の版間の差分
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'''アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ'''('''Albrecht von Brandenburg-Ansbach'''、[[1620年]][[9月18日]]、[[アンスバッハ]] - [[1667年]][[10月22日]]、アンスバッハ)は[[フランケン]]地方[[アンスバッハ侯領]]の[[辺境伯]]。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯[[ヨアヒム・エルンスト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨアヒム・エルンスト]]とその妻ゾフィー・フォン・ゾルムス=ラウバッハの次男。[[フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ]]の弟。 |
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父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、[[1634年]]にその兄が[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。1639年に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。 |
父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、[[1634年]]にその兄が[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。[[1639年]]に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。 |
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== 子供達 == |
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* [[ヨハン・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨハン・フリードリヒ]](1654年 - 1686年) - ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯 |
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* アルブレヒト・エルンスト(1659年 - 1674年) |
* アルブレヒト・エルンスト(1659年 - 1674年) |
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* ドロテーア・シャルロッテ(1661年 - 1705年) - [[ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|エルンスト=ルートヴィヒ]]と結婚 |
* ドロテーア・シャルロッテ(1661年 - 1705年) - [[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|エルンスト=ルートヴィヒ]]と結婚 |
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* エレオノーレ・ユリアーネ(1663年 - 1724年) - [[ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公]][[フリードリヒ・カール (ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公)|フリードリヒ・カール]]と結婚 |
* エレオノーレ・ユリアーネ(1663年 - 1724年) - [[ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公]][[フリードリヒ・カール (ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公)|フリードリヒ・カール]]と結婚 |
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[[1664年]]、[[バーデン (領邦)|バーデン=ドゥルラッハ辺境伯]][[フリードリヒ6世 (バーデン=ドゥルラッハ辺境伯)|フリードリヒ6世]]の娘クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラッハ(1645年 - 1705年)と3度目の結婚をした。子供はいない。 |
[[1664年]]、[[バーデン (領邦)|バーデン=ドゥルラッハ辺境伯]][[フリードリヒ6世 (バーデン=ドゥルラッハ辺境伯)|フリードリヒ6世]]の娘クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラッハ(1645年 - 1705年)と3度目の結婚をした。子供はいない。 |
2010年8月27日 (金) 03:42時点における版
アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ(Albrecht von Brandenburg-Ansbach、1620年9月18日、アンスバッハ - 1667年10月22日、アンスバッハ)はフランケン地方アンスバッハ侯領の辺境伯。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム・エルンストとその妻ゾフィー・フォン・ゾルムス=ラウバッハの次男。フリードリヒの弟。
父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、1634年にその兄がネルトリンゲンの戦いで独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。1639年に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。
子供達
1642年、ルートヴィヒ・フリードリヒ・フォン・ヴュルテンベルク=メムペルガルトの娘ヘンリエッテ・ルイーゼ・フォン・ヴュルテンベルク(1623年 - 1650年)と結婚、3人の子を儲けた。
- ゾフィー・エリーザベト(1643年 - 1643年)
- アルベルティーネ・ルイーゼ(1646年 - 1670年)
- ゾフィー・アマリー(1649年 - 1649年)
1651年、ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン(1634年 - 1664年)と再婚、5人の子を儲けた。
- ルイーゼ・ゾフィー(1652年 - 1668年)
- ヨハン・フリードリヒ(1654年 - 1686年) - ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯
- アルブレヒト・エルンスト(1659年 - 1674年)
- ドロテーア・シャルロッテ(1661年 - 1705年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト=ルートヴィヒと結婚
- エレオノーレ・ユリアーネ(1663年 - 1724年) - ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公フリードリヒ・カールと結婚
1664年、バーデン=ドゥルラッハ辺境伯フリードリヒ6世の娘クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラッハ(1645年 - 1705年)と3度目の結婚をした。子供はいない。
参考文献
- M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5
この文献は、ドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。
外部リンク
- Albrecht (Brandenburg-Ansbach)のリンク集 im VD 17(17世紀のドイツ語圏の歴史に関するリンク集)
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