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'''高木 正成'''('''たかぎ まさなり'''、[[天正]]15年([[1587年]]) - [[寛永]]12年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1635年]][[4月27日]]))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[江戸時代]]の[[大名]]で[[河内]][[丹南藩]]の第2代藩主。父は初代藩主・[[高木正次]](正成は長男)。母は[[大久保忠佐]]の養女。正室は[[山口重政]]の養女。官位は従五位下。[[主水正]]。 |
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1587年、[[近江]]にて生まれる。幼名は善次郎。[[1598年]]より[[徳川氏]]に仕え、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では父とともに[[信濃]][[上田城]]の[[真田昌幸]]を攻めた。[[1614年]]、[[大坂冬の陣]]に従軍して戦功を挙げ、[[上総国]]内に1000石を与えられた。翌年の[[大坂夏の陣]]においても天王寺口で戦い、戦傷を負いながらも武功を挙げたため、さらに1000石を加増された。[[1630年]]、父の死去により後を継ぐ。このとき、先の2000石を子の[[高木正弘]]と[[高木正好]]に分与している。 |
1587年、[[近江]]にて生まれる。幼名は善次郎。[[1598年]]より[[徳川氏]]に仕え、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では父とともに[[信濃]][[上田城]]の[[真田昌幸]]を攻めた。[[1614年]]、[[大坂冬の陣]]に従軍して戦功を挙げ、[[上総国]]内に1000石を与えられた。翌年の[[大坂夏の陣]]においても天王寺口で戦い、戦傷を負いながらも武功を挙げたため、さらに1000石を加増された。[[1630年]]、父の死去により後を継ぐ。このとき、先の2000石を子の[[高木正弘]]と[[高木正好]]に分与している。 |
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[[小田原城]]守衛や御書院番頭などを努めたことから上総国内に3000石を加増され、後に[[大番頭]]にもなった。1635年3月11日、49歳で死去し、後を子の正弘が継いだ。 |
[[小田原城]]守衛や御書院番頭などを努めたことから上総国内に3000石を加増され、後に[[大番頭]]にもなった。1635年3月11日、49歳で死去し、後を子の正弘が継いだ。 |
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2005年10月18日 (火) 13:04時点における版
高木 正成(たかぎ まさなり、天正15年(1587年) - 寛永12年3月11日(1635年4月27日))は、安土桃山時代の武将。江戸時代の大名で河内丹南藩の第2代藩主。父は初代藩主・高木正次(正成は長男)。母は大久保忠佐の養女。正室は山口重政の養女。官位は従五位下。主水正。
1587年、近江にて生まれる。幼名は善次郎。1598年より徳川氏に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは父とともに信濃上田城の真田昌幸を攻めた。1614年、大坂冬の陣に従軍して戦功を挙げ、上総国内に1000石を与えられた。翌年の大坂夏の陣においても天王寺口で戦い、戦傷を負いながらも武功を挙げたため、さらに1000石を加増された。1630年、父の死去により後を継ぐ。このとき、先の2000石を子の高木正弘と高木正好に分与している。
小田原城守衛や御書院番頭などを努めたことから上総国内に3000石を加増され、後に大番頭にもなった。1635年3月11日、49歳で死去し、後を子の正弘が継いだ。