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2009年4月27日 (月) 16:05時点における版

矢部禅尼(やべぜんに、文治3年(1187年) - 康元元年(1256年4月10日)は、鎌倉時代前期から中期にかけての三浦一族の女性。鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の娘。3代執権北条泰時の前妻で、4代執権経時、5代執権時頼の祖母にあたる。法名は禅阿。

建久5年(1194年)2月に13歳の北条泰時が元服した際、源頼朝三浦義澄に孫娘から良い娘を選んで泰時と娶せるよう命じた事により泰時との婚約が決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男義村の娘(矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の時氏が産まれるが、のちに泰時と義村の娘は離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。

義村の娘は三浦氏佐原義連流の佐原盛連に再嫁して光盛盛時時連の三子を産み、夫盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子供達は北条氏側として戦い、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。執権時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。

関連項目