「デュッラキウムの戦い」の版間の差分

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'''ドゥラキウムの戦い'''(どぅらきうむのたたかい、伊:''Battaglia di Dyrrhachium'')は[[紀元前48年]][[7月10日]]にドゥラキウムで行われた戦いであり、[[グナエウス・ポンペイウス]]らの[[元老院派]]が[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]率いるカエサル派を撃破した。 「ディラキウムの戦い」「デュキウムの戦い」とも表記される。
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==概要==
==概要==
[[ヒスパニア]]でポンペイウス軍を倒したカエサルはポンペイウスを攻撃するために[[アドリア海]]を横断して、紀元前48年1月4日に[[ギリシア]]に着陸、オリクムとアポロニアを占領した。
[[ヒスパニア]]でポンペイウス軍を倒したカエサルはポンペイウスを攻撃するために[[アドリア海]]を横断して、紀元前48年1月4日に[[ギリシア]]に着陸、オリクムとアポロニアを占領した。


ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を騎兵で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはドゥラキウムにあったポンペイウス軍の陣地を包囲した。塹壕堀りと欄干を接続した。ポンペイウスはカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。
ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を騎兵で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはデュキウムにあったポンペイウス軍の陣地を包囲した。塹壕堀りと欄干を接続した。ポンペイウスはカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。


ポンペイウスは、海からの攻撃でカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走した為、カエサル軍は恐慌状態に陥って、大敗喫した。カエサルも危うく命を失いほどの完敗であった。ただし、ポンペイウスはカエサル軍の余りの負けっぷりに罠を仕掛けているのでは思ったことから、追撃を止めた。これはカエサルにとっては幸運であった。カエサルは語った「今日、もう少し工夫すれば勝利は完全に敵のものであったものを」と。
ポンペイウスは、海からの攻撃でカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走した為、カエサル軍は恐慌状態に陥って、32本の軍旗奪われ、カエサルも危うく命を失いほどの完敗であった。実際にカエサルは撤退せずに向き直って立ち向かうように兵士に指示したが、その兵士が逆上して危うくカエサルを切り殺しそうになったと伝わっている。ただし、ポンペイウスはカエサル軍の余りの負けっぷりに罠を仕掛けているのでは思ったことから、追撃を止めた。これはカエサルにとっては幸運であった。「今日、もう少し工夫すれば勝利は完全に敵のものであったものを」とカエサルは後に語った


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カエサルは[[テッサリア]]へ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったが[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]や[[ルキウス・アフラニウス]]ら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げにより、カエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称される[[ルサルスの戦い]]が行われることになる。




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2008年10月25日 (土) 06:48時点における版

デュラッキウムの戦い
戦争ローマ内戦
年月日紀元前48年7月10日
場所:デュラッキウム(現:ドゥラス
結果:元老院派の勝利
交戦勢力
カエサル派 元老院派
指導者・指揮官
カエサル ポンペイウス
戦力
15,000 45,000
損害
1,000 不明
ローマ内戦(BC49-BC45)

デュラッキウムの戦い(どぅらきうむのたたかい、伊:Battaglia di Dyrrhachium)は紀元前48年7月10日にデュラッキウム(現:ドゥラス)で行われた戦いであり、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派ガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派を撃破した。 「ディラキウムの戦い」「ドゥラキウムの戦い」とも表記される。

概要

ヒスパニアでポンペイウス軍を倒したカエサルはポンペイウスを攻撃するためにアドリア海を横断して、紀元前48年1月4日にギリシアに着陸、オリクムとアポロニアを占領した。

ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を騎兵で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはデュラッキウムにあったポンペイウス軍の陣地を包囲した。塹壕堀りと欄干を接続した。ポンペイウスはカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。

ポンペイウスは、海からの攻撃でカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走した為、カエサル軍は恐慌状態に陥って、32本の軍旗を奪われ、カエサルも危うく命を失いほどの完敗であった。実際にカエサルは撤退せずに向き直って立ち向かうように兵士に指示したが、その兵士が逆上して危うくカエサルを切り殺しそうになったと伝わっている。ただし、ポンペイウスはカエサル軍の余りの負けっぷりに罠を仕掛けているのでは思ったことから、追撃を止めた。これはカエサルにとっては幸運であった。「今日、もう少し工夫すれば勝利は完全に敵のものであったものを」とカエサルは後に語った。

カエサルはテッサリアへ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったがルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスルキウス・アフラニウスら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げにより、カエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称されるパルサルスの戦いが行われることになる。