「前後左右将軍」の版間の差分

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『[[漢書]]』百官公卿表上、『[[続漢書]]』百官志一によれば[[周]]末に生まれた官であるという。金印紫綬で、常に置かれたのではなかった。征伐を掌り、任務が終われば官自体も終了した。
『[[漢書]]』百官公卿表上、『[[続漢書]]』百官志一によれば[[周]]末に生まれた官であるという。金印紫綬で、常に置かれたのではなかった。征伐を掌り、任務が終われば官自体も終了した。


『[[宋書]]』百官志上によると、[[後漢]]の[[光武帝]][[建武 (漢)|建武]]7年に一旦廃止され、[[魏]]以降にまた置かれるようになったというが、『後漢書』光武帝紀によれば建武13年に左右将軍が廃止されており、後漢末以降また置かれるようになっている。
『[[宋書]]』百官志上によると、[[後漢]]の[[光武帝]][[建武 (漢)|建武]]7年に一旦廃止され、[[魏 (三国)|魏]]以降にまた置かれるようになったというが、『後漢書』光武帝紀によれば建武13年に左右将軍が廃止されており、後漢末以降また置かれるようになっている。


『宋書』百官志上、下によると、宋においてはいわゆる[[四征将軍]]、[[四鎮将軍]]などより下位にあった。
『宋書』百官志上、下によると、宋においてはいわゆる[[四征将軍]]、[[四鎮将軍]]などより下位にあった。

2008年9月13日 (土) 16:02時点における版

前後左右将軍(ぜんごさゆうしょうぐん)は前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ。

  • 左将軍
  • 右将軍
  • 前将軍
  • 後将軍

の四種の総称である。

漢書』百官公卿表上、『続漢書』百官志一によれば末に生まれた官であるという。金印紫綬で、常に置かれたのではなかった。征伐を掌り、任務が終われば官自体も終了した。

宋書』百官志上によると、後漢光武帝建武7年に一旦廃止され、以降にまた置かれるようになったというが、『後漢書』光武帝紀によれば建武13年に左右将軍が廃止されており、後漢末以降また置かれるようになっている。

『宋書』百官志上、下によると、宋においてはいわゆる四征将軍四鎮将軍などより下位にあった。

参考文献

  • 漢書』巻19上百官公卿表上、巻55霍去病伝
  • 続漢書』(『後漢書』合刻)百官志一
  • 宋書』巻39百官志上、巻40百官志下