「ウィーン体制」の版間の差分
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しかし、[[産業革命]]による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化などから次第に枠組みが揺らぎ始め、[[1848年革命]]後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局[[クリミア戦争]]を回避することができず崩壊した。 |
しかし、[[産業革命]]による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化などから次第に枠組みが揺らぎ始め、[[1848年革命]]後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局[[クリミア戦争]]を回避することができず崩壊した。 |
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==[[ウィーン議定書]]における領土変更== |
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*[[フィンランド]]・[[ベッサラビア]]:ロシア領になる。 |
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*[[ポーランド立憲王国]]:[[ワルシャワ大公国]]の大部分で形成。[[ロシア]][[皇帝]]が王を兼ね、事実上のロシア領となる。('''第四次ポーランド分割''') |
*[[ポーランド立憲王国]]:[[ワルシャワ大公国]]の大部分で形成。[[ロシア]][[皇帝]]が王を兼ね、事実上のロシア領となる。('''第四次ポーランド分割''') |
2005年3月17日 (木) 11:27時点における版
ウィーン体制は、ウィーン会議以後のヨーロッパ世界の体制。クリミア戦争によって完全に崩壊するまで続く国際的反動体制。 フランス外相タレーラン・ペリゴールの正統主義を基に、フランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡を図った。神聖同盟・四国同盟を中心に、自由主義・国民主義運動を抑圧。 一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期の安定を欧州にもたらしていた。 しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化などから次第に枠組みが揺らぎ始め、1848年革命後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局クリミア戦争を回避することができず崩壊した。
ウィーン議定書における領土変更
- ノルウェー:スウェーデンと同君連合になる。
- フィンランド・ベッサラビア:ロシア領になる。
- ポーランド立憲王国:ワルシャワ大公国の大部分で形成。ロシア皇帝が王を兼ね、事実上のロシア領となる。(第四次ポーランド分割)
- セイロン島(スリランカ):イギリスがオランダより獲得。
- ケープ植民地:イギリスがオランダより獲得。
- マルタ島:イギリス領になる。
- ロンバルディア・ヴェネツィア:オーストリア領になった。
- オランダ立憲王国:オーストリア領南ネーデルラント(1830年、独立しベルギー成立)を併合し復活。
- ドイツ連邦:ライン同盟を廃止。35の君主国と4自由市で構成した国家連合。オーストリアが盟主。1866年まで存続。
- スイス:5州を加え永世中立国として承認された。