ノート:龐徳

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ノート:ホウ徳から転送)
  • 「ホウ徳」は『演義』の呼び方で『正史』では「ホウ悳」となっています。正史に準拠し修正すべきではないでしょうか。

『「ホウ徳」は『演義』の呼び方』ではなく、『三国志』中にも龐德と龐悳とが混在しています。らりた 2006年6月5日 (月) 13:29 (UTC)[返信]

というか、「悳」は「徳」の異体字です。「陳羣」と「陳群」の表記と同じでどちらが間違いという訳でもなく、どちらでも可なので、百科事典としてはポピュラーな方を見出しにするのがいいと思います。--トホホ川 2006年12月10日 (日) 09:23 (UTC)[返信]


歴史マニア様へ

まずあれだけの編集をするならコメント欄にでも理由を書いた方がいいですよ。

内容についてですが、失礼ながら貴方の編集には以下のような問題点が見受けられます。

生年の170年の根拠は何ですか?私が知る限り陳寿の『三国志』の龐徳伝やその注では生年を断定や推測できません。なにかご存知でしたら根拠となる史書や研究書を教えてください。
  • 常に白馬に騎乗していたことから白馬将軍とも呼ばれていた。
項目の初めに置くのも完全な誤りとは言えないでしょうが、龐徳伝によると関羽との戦いの中で関羽の軍内で最初に言われたことのようですから、誤解を避けるためには編集前の版にあるように関羽との戦いの経緯の中で記した方がよいのではないでしょうか。
  • 関羽との壮絶な打ち合いし関羽の左肘に矢を命中し負傷させるなど武勇はかなり優れていたという。
『三国志』の龐徳伝では龐徳が関羽の頭に矢を当てたことが記されていますが、左肘ではありません。左肘に命中というのはいわゆる『三国演義』、つまり創作の話ですよね?
  • その一方で、于禁は曹操軍古参の武将でありながら、関羽に命乞いして助命されたが、帰国後は龐徳と比較をされ蔑まれ、諡においてまで侮蔑の対象とされてしまった。
この項目は龐徳の項目なのですから、于禁のこの件は書くにしても于禁の項目にするべきではないですか?

ご自分の編集内容が正当なものだと考えて再び編集しようというのであれば、まず以上の問題点について反論し、自説の正しさを明示してからになさってください。--てぃーえす 2007年11月8日 (木) 12:02 (UTC)[返信]