ノート:非行五ヶ条

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文久三年八月十八日の政変以後の新選組の活躍は華々しいものであるが、それ   に伴って新選組内部にも不平がおこり出した様である。それはこの頃になって、 近藤勇にわがままな挙動がおこりはじめたからであるという。そこで試衛館以来 の同志である副長助勤永倉新八・原田左之助や斎藤一ら6名が松平保容に近藤の 非行五ヶ条をあげた建白書を呈出した。しかし保容のはからいで両者の間は円 満にゆき、事無きをえたようである。  元治元年(1864)7月、朝廷から幕府に対して長州征伐の勅許がおりた。 しかし幕府はなかなか動こうとしないため、朝廷では将軍進発を催促するという 内議があった。近藤はこのような京都の情勢を伝え将軍の上洛をすすめるために、 松平保容の同意を得て永倉新八・尾形俊太郎・武田観柳斎の三人を同行させて10 月下旬に江戸へ向かった。 江戸に着いた近藤は老中松前崇広に会見し、親征はともかくとして、上洛をして 天機を奉伺されるよう尽力されたい旨を述べた。これに対して崇広は、財政的に 苦しいという内情をうちあけたといわれる。  近藤は久々の東下の機会に江戸で同志を募集した。(註19)この募集に応じて新選 組に加入した者は50余人であたった。この中には江戸深川佐賀町に北辰一刀流の 道場を開いていた伊東甲子太郎をはじめ、実弟鈴木三樹三郎、中西登、内海二郎、 加納道之助、服部武雄、佐野七五三之助、篠原泰之進らが含まれている。

伊東は常陸志筑の脱藩で、性格温和で、剣術の他学芸もたしなみ、特に和歌に秀でていた。早くから尊王攘夷の志をいだき、熱心な勤王論者であった。

 こうして同志を獲得した近藤らは、将軍上洛が容易に実行されないことを知ったため、11月上旬に帰京した。  将軍上洛は実現しなかったが、元治元年(1864)11月11日に征長総督徳川慶勝が大坂を立ち広島に陣を張った。しかし長州藩は恭順の意を表したため、第一次征長軍は戦わずして12月に撤兵をしている。  ところが長州藩内には恭順に反対する者も多く、この者たちに同調する土佐脱藩浪士たちが大坂市中焼き打ちの計画を密かにすすめていた。その土佐脱藩浪士たちというのは大利鼎吉、浜田辰弥、橋本鉄猪、那須盛馬らで、彼らは脱藩の罪を犯しているがために、藩の捕吏に追われる立場にあった。そこで彼らは彼らと意を通じている、南瓦町のかはら屋九八郎の借家に住むぜんざい屋石蔵屋政右衛門のもとに身をひそめた。石蔵屋政右衛門は本名を本多大内蔵といい、もと武者小路家の家臣であった。この石蔵屋を本拠として、武器・弾薬の調達や同志の募集など、市中焼き打ち計画を準備していた。

(註19)近藤勇の6月8日付けの書翰に「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と述べている。

左上写真・・・・・伊東甲子太郎肖像画 「新選組写真集」新人物往来社より


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