ナーシルッディーン・マフムード・シャー

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ナーシルッディーン・マフムード・シャー(Nasir ud din Mahmud, 生年不詳 - 1266年)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝の第8代君主(在位:1246年 - 1266年)。父は第3代君主のシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ[1]

生涯[編集]

1246年6月、ナーシルッディーン・マフムード・シャーは甥アラー・ウッディーン・マスウード・シャーの廃位後、トルコ系貴族でチェハルガーニーの一人バルバンらによって擁立され、同月12日に即位した[2]。彼が推戴された理由としては、バフラーイチにおける善政によるものだ、と後世の歴史家フィリシュタは語っている。

バルバンはマフムード・シャーの父イルトゥトゥミシュの没後に頭角を現した人物であるが、野心家であった彼は摂政(ナーイブ)として、政権内の組織を着々と手中に収めるとともに、自身の立場を固めていった[3][4]。また、1249年にマフムード・シャーはバルバンの娘と結婚し、その治世はバルバンの影響力がさらに増すところとなった[5]。彼はバルバンに「ウルグ・ハーン・アーザム」の称号を与えるとともに、国軍の指揮官にも任命した[6]

とはいえ、1253年にマフムード・シャーはバルバンに匹敵する強力なインド人貴族イマードゥッディーン・ライハーンの助力を得て、バルバンを宮廷から排除し、デリーから彼のナーガウルイクターに追いやった[7][8]。トルコ人に変えて非トルコ系の人材に行政を委ねる形となった[9]

だが、1254年になり、トルコ系士官らが反乱を起こしてデリーを包囲すると、バルバンは自身のイクターからデリーに戻った。彼は政権復帰の交渉を行って復帰し、ライハーンは自身のバダーウーン のイクターに追いやられた[10][11]。翌1255年、ライハーンは殺害された[12]

そのうえ、バルバンはマフムード・シャーに対し、王族を象徴する白い日傘(チャトル)といった王の所持品を渡すよう命じた[13][14]。 そのため、バルバンは貴族の一人にすぎないながらも全権を掌握し、マフムード・シャーを傀儡(ノムナ)として国政を牛耳った[15]

マフムード・シャーは何も成せないまま、1266年にデリーで死去した[16]。バルバンによって毒殺されたのだという。嗣子がなかったため、姻戚関係にあった摂政であるバルバンが王位を継承した[17]

脚注[編集]

  1. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、57頁
  2. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  3. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  4. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.77
  5. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  6. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  7. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118
  8. ^ Medieval India From Sultanat to the Mughals-Delhi Sultanat (1206-1526 ... - Satish Chandra - Google ブックス
  9. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.119
  10. ^ Indian History
  11. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.77
  12. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.77
  13. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.119
  14. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.78
  15. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.119
  16. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.119
  17. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.120

参考文献[編集]

  • 荒松雄 『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』 未来社、2006年 
  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 
  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 

関連項目[編集]