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2008年より社会医療法人財団天心堂理事長、2013年より同会長。 |
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* 1971年―大分県立大分上野丘高等学校を経て、九州大学医学部入学・卒業 |
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* 1971年―国家公務員共済組合連合会千早病院小児科勤務 |
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* 愛ですか? 臓器移植(社会評論社) |
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* パンドラの箱を開けたのか―崩れゆく日本の医療―(エヌワイ企画) |
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== 外部リンク == |
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2015年1月20日 (火) 04:48時点における版
松本文六(まつもと ぶんろく/1942年11月5日生)は、日本の医師。社会医療法人財団天心堂会長。日本病院会理事、地域医療研究会代表世話人、大分県病院協会副会長、労働者住民医療機関連絡会議議長。
人物
1942年、大分市中戸次の開業医の家に生まれる。九州大学医学部入学後、1968年6月2日のアメリカ軍ファントムジェット機が、九大工学部構内に墜落し、騒然とした中で、医学部学生自治会の委員長となり、8ヵ月に亘るストライキを敢行。 大学闘争の折、インターン制度反対、無給医制度反対の立場をとっていたので、卒業後の研修は大学に入局せず、1971年より小児科医として市中病院で研修・勤務。その間、先天性疾患とみなされていた「筋短縮症」と「未熟児網膜症」の医療被害運動に関わり、いずれもが薬害であることを自主検診医師団とともに証明。1976年に日本小児科学会にその予防策を提言させた。 1980年に父親の築いた地域の医療を継承、発展させるべく郷里の大分市に天心堂へつぎ病院を創設。その後、サテライト診療所や介護老人保健施設、訪問看護ステーション、在宅総合ケアセンター、発達障害児デイサービス、乳幼児健康支援デイサービスセンターなどを新しく開設し、保健・医療・福祉の統合された広い意味での地域包括医療・ケアを展開し、地域包括医療・ケアのモデルを社会に提起した。30年以上に亘り総合診療医として地域医療の現場に携わっている。 1990年代に入り、“脳死”を前提とした臓器移植が社会問題化する中で、《他人の死を期待する医療》を日本に導入すべきでないと現衆議院議員の阿部知子氏と「脳死・臓器移植を考える委員会」を結成し、反対運動を展開した。1997年7月に成立した「臓器移植法」は世界で最も厳しい臓器移植法と言われた。 2007年には『いのちが一番』をキャッチ・フレーズに、第21回参議院議員選挙の大分県選挙区に無所属(社会民主党推薦)で出馬したが落選。 2008年より社会医療法人財団天心堂理事長、2013年より同会長。
経歴
- 1971年―大分県立大分上野丘高等学校を経て、九州大学医学部入学・卒業
- 1971年―国家公務員共済組合連合会千早病院小児科勤務
- 1980年―天心堂へつぎ病院創設 院長
- 1990年―老人保健施設陽光苑を創設
- 1998年―大分県老人保健施設協会 会長(~07年)
- 2004年―大分大学医学部 臨床教授(臨床薬理学)
- 2006年―日本病院会 理事
- 2007年―地域医療研究会 代表世話人
- 2008年―社会医療法人財団天心堂 理事長
- 2010年―大分県病院協会 副会長(理事 96年~)
- 2013年―労働者住民医療機関連絡会議 議長
- 2013年―社会医療法人財団天心堂 会長
著書
- 注射による筋短縮症(三一書房)
- 地域医療がかわる(ゆみる出版)
- 「脳死」からの臓器移植は何故問題か(ゆみる出版)
- 愛ですか? 臓器移植(社会評論社)
- パンドラの箱を開けたのか―崩れゆく日本の医療―(エヌワイ企画)