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[[Image:Nadezhda Durova.jpg|thumb|right|180px|ナジェージダ・ドゥーロワ]]
[[File:Aristarchus of Samothrace.JPG|thumb|ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルによる「[[ホメロス礼賛]]」(1827)に描かれるアリスタルコス]]
'''サモトラケのアリスタルコス''' (''{{polytonic|Ἀρίσταρχος}}'' 紀元前220年?-紀元前143年?)は[[ホメロス]]の叙事詩を研究する学者に大きな影響力を持った文献学者である。[[ビザンチンのアリストファネス|アリストファネス]]にビザンチンで師事した[[アレキサンドリア]]の図書館の司書であり、後にその仕事を引き継いで館長になったとみられている。


'''ナジェージダ・アンドレーエヴナ・ドゥーロワ''' ({{lang-ru|Наде́жда Андре́евна Ду́рова}} 1783年9月17日 - 1866年3月21日)はアレクサンドル・ドゥーロフ、アレクサンドル・ソコロフ、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・アレクサンドロフという名でも知られる、ナポレオン戦争中にロシアの騎兵隊の一員として活躍し、叙勲された女性である。ロシアの軍人として知られるうちで初めての女性の将校ともなった。ドゥーロワの回想録である「女騎兵の手記(''The Cavalry Maiden'' ))」はこの時代の貴重な文章である。それはナポレオン戦争中の経験を記した若い将校が少ないというばかりではなく、ロシア語で開かれた自伝としても最初期の一つに挙げられるからである。
アリスタルコスはホメロスの詩を批判しつつ編纂し、史上最も重要な版をまとめあげた。また師のもちいた強勢の原則(accent system)にならい、韻律的な正確性に注目してテクストに当たったといわれており、疑わしい詩行を退けるとき<ref>[[キケロ]]『友人・家人宛書簡集』(Cic. ad Fam.) iii.11.5, ix.10.1; in Pis. 30.73</ref>のアリスタルコスの厳しさはよく知られるところとなった<ref>Hor. A. P. 450</ref>。また[[イリアス]]と[[オデュッセイア]]をそれぞれ24巻本に編集したのもアリスタルコスだとされているが、これはアレキサンドリアにおけるもう1人の先達であるゼノドトスが行ったという説のほうが有力である。[[スーダ辞典]]にはアリスタルコスは様々な分野にわたり800冊もの注釈書(''{{polytonic|ὑπομνήματα}}'') を著したとあるが、今日それらは全て失われており、いくつかの断片的なスコリア(註)となって残っているだけである。


==幼年時代==
その死をめぐっては諸説あるが、プトレマイオス朝時代のエジプトで[[プトレマイオス8世]]の迫害を受けていた時期のことだという点には一致をみている。ある説によれば[[キプロス]]へと亡命している間に不治の水腫にかかり、自ら飢えて死ぬことを選んだのだという。
ナジェージダ・ドゥーロワはキエフの兵舎で生まれた。ロシア軍の少佐(major)であった父は、ナジェージダを部下の兵士に預けるように育てた。粗暴な母親が移動中の馬車の窓から幼い娘を放り出し、殺しかけるという事件がきっかけだった。小さな子供であったころから、ドゥーロワは行軍の号令につかう旗をすべて覚えたり、好んで空鉄砲をもてあそび玩具のかわりにしていた<ref>{{cite book | title=''Nadezhda Durova: The Cavalry Maid'' | last=Mersereau | first=John Jr. | coauthors=Lapeza, David | publisher=Ardis | date=1988 | isbn=0-87501-032-6}}</ref>。


父が退役した後もドゥーロワは折れたサーベルをきらめかせ、人に馴れぬと思われた雄馬をひそかに手懐けては家族を驚かせた<ref>Mersereau & Lapeza, p. 21</ref>。1801年にはサラプルの判事であったワシーリー・チェルノフと結婚し、2年後には息子のイワンをもうけている。1805年にコサックの武官と一緒になって家を飛び出しているという説もあるが、1807年に24歳となったナジェージダは息子と夫を棄て、愛馬を連れてポーランド槍騎兵(ウワン)に籍を入れた。男装しているときの偽名は「アレクサンドル・ソコロフ」であった。
歴史における彼の名前は[[文芸評論]]と結びつき、批判的な評者を指して「アリスタルコス的」なる言葉が生まれたほどである。


[[file:Durova180.jpg|thumb|right|180px|若き日のドゥーロワ]]
==関連項目==
動物に親しみ、外に出ることを好むドゥーロワはまた熱狂的な愛国者であり、軍人となることを自由になることだと考えていた。そして伝統的な女性の仕事には向いていないと感じていたのだった。自伝には母との不幸な関係についてページが割かれており、逆に父親の描写には暖かみを感じさせ、結婚生活についてはついに何も書かれぬままである。
*[[Homeric scholarship]]


==出典==
==軍役==
1806年から1807年にかけてのドイツ・ポーランド戦役では主要な戦いに従軍している。そのうち2度の戦いで味方の兵士の危機を救っていて、1人目は戦場で落馬して震盪を起こしていた男で、ドゥーロワは激しい砲撃のなかを先駆けて救援に向かい、自軍が周囲まで退却するまで安全を確保していたのだった。2人目も落馬した将校だったが、こちらは無傷だった。迫ってくるフランス軍の竜騎兵に槍を構えたドゥーロワは立ちはだかった。自分がさらに危険になるのも構わず自分の軍馬を将校に貸してやり退却を急がせたのだ。これは軍規に逆らう行為でもあった。
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戦役のあいだ家族に手紙を書き、自分がいなくなった訳を説明している。家族のほうでは手立てをつくして娘の場所を探り当てようとむなしくも試みていた。その頃、ツァーリ、アレクサンドル2世の耳には、軍隊にアマゾンがいるという噂がはいり、個人的な興味をもたれていた。ドゥーロワの階級(chain of command)は、その無類の勇気を物語っていた。ペテルブルクの宮殿に呼び出されたドゥーロワは皇帝に強い印象を与え、聖ゲオルギウス十字を授かるとともに軽騎兵隊(ハサー)の尉官(lieutenant)に昇進している。アレクサンドル・ソコロフという名とともに軍には女傑がいるという話はこの頃までにはよく知られるものとなっていた。そのため皇帝は偽名をもとに新たな名として「アレウサンドロフ」を賜っている<ref>{{ru icon}} [http://www.rulex.ru/01050167.htm Rulex.ru]</ref>。
[[file:Nasezhda Durova.jpg|thumb|ウラジーミル・ガウによる鉛筆画(1937年)]]
ドゥーロワのうら若い容貌はその栄達の妨げとなった。ロシアの軍人には口ひげを生やすことが求められていた時代に、この女騎兵は16歳の少年のようであったのだ。またウワンからハサーへと転科したのには、ドゥーロワへ恋をした大佐(colonel)の娘を避けるという意味もあった。1812年にナポレオンがロシアに侵攻してくると、再びドゥーロワは武器をとった。身を投じたのはスモレンスクの戦いである。ボロディノの戦いでは砲弾で脚を怪我したが、立て直すため退却を命じられるまで幾日も前線で戦い続けた。1816年に彼女は軍を退いた。最終的な階級は騎兵大尉({{lang-ru|''Ротмистр''}})であった<ref>{{ru icon}} [http://www.rulex.ru/01050167.htm Rulex.ru]</ref>。

それから20年以上も経って、ドゥーロワはアレクサンドル・プーシキンを紹介される機会をえた。プーシキンは彼女が軍隊にいたときに日記をつけていたことを聞いており、それを回想録として出版するよう勧めている。ドゥーロワは日記に幼少期の出来事を背景としてつけ加え、年を7歳だけ誤魔化した上でそれを「女騎兵の手記(''The Cavalry Maiden'' )」として1836年に出版した。結婚について言及した箇所すべては削られていた。彼女はまた4つの小説を書き、女性の権利を擁護している。ドゥーロワは終生男装を続け、1866年に[[エラブガ]]で亡くなった。埋葬は軍人として最大限の名誉でもって行われた<ref>{{ru icon}} [http://www.rulex.ru/01050167.htm Rulex.ru]</ref>。

==伝説==
[[Image:Durova Kavalerist devica.JPG|thumb|180px|「女騎兵の手記」の初版本(1836年)]]
ドゥーロワの子孫はその動物を手懐ける才能を受け継いでいた。曾孫にあたるウラジーミルとアナトーリーはロシアのサーカス団で動物の調教師として有名になり、モスクワに「ドゥーロフ動物劇場」を建てている。現在この劇場はナジェージダを祖にもつナターリヤ・ドゥーロワが経営している。

ドゥーロワが男装していたと言う事実は近年関心の的となっている。彼女の息子が結婚の承諾を得るとき、男性的な人格を選んだ母には「お父様へDear Parent」という宛名で手紙を送るほどだった。完全な自由を得るための男装と独身の生活を送ったドゥーロワに性別直行を読み取ろうとする者もいるし、女性的でない装いをしていたことに性的な含みをみる者もいる。ドゥーロワの手記に綴られた文章は当時の道徳観が確かにみてとることができる、貞潔を称揚しているものである。

珍しい女性の軍人による回想録というだけでなく、「女騎兵の手記」はナポレオン戦争中の出来事を若い士官の眼から捉えた確かな史料の一つであり、ロシア文学における最初期の自伝でもある。

ドゥーロワは西欧においていくつかの文化に描かれてきたが、英語圏では1988年にメアリ・フレミング・ジーリンが「女騎兵の手記」を翻訳するまでほとんど無名のままだった。今や彼女は比較文学やロシアの歴史、トランスジェンダー研究などのテーマのもと大学で講義が行われ学術的な対象となっている。
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==Artistic works about Nadezhda Durova==
*''Nadezhda Durova'', an opera by [[Anatoly Bogatyrev]].
*''A Long Time Ago'', a play by [[Alexander Gladkov]].
*''Hussar Ballad'', an operetta by [[Tikhon Khrennikov]]
*''[[Hussar Ballad]]'', a film directed by [[Eldar Ryazanov]].
*[http://www.elabuga.ru/foto/022.jpg Monument to Nadezhda Durova] in [[Yelabuga]], sculptor F. F. Lyakh, architect S. P. Buritsky, 1993
-->
==関連項目==
*[[Battle of Eylau]]
*[[Battle of Friedland]]
*[[Battle of Jena-Auerstedt]]
*[[Crossdressing during wartime]]
*[[Timeline of women's participation in warfare]]
*[[War and Peace in Russia, 1796-1825]]

==脚注==
<div class="references-small" style="-moz-column-count:2; column-count:2">
<references/></div>
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==Bibliography==
*{{cite book | author=Mersereau, John Jr. & Lapeza, David | title=''Nadezhda Durova: The Cavalry Maid'' | publisher=Ardis | year=1988}}
*Durova, Nadezhda, ''The Cavalry Maiden: Journals of a Russian Officer in the Napoleonic Wars'' trans. Mary Fleming Zirin. [[Indiana University Press]], 1989. ISBN 0-253-20549-2 (see book reviews on [http://www.amazon.com/gp/product/0253205492 Amazon.com]).
*Barta, Peter I., "Gender Trial and Gothic Trill: Nadezhda Durova's Subversive Self-Exploration" by Amdreas Schonle in ''Gender and Sexuality in Russian Civilization'', 2001. ISBN 0-415-27130-4
-->
==外部リンク==
==外部リンク==
* A [http://historynet.com/mh/blnadezhdadurova/index.html History Net] summary of Durova's life.
*[http://www.bibalex.jp/Ancient/03/03033.html 古代アレクサンドリア探訪]
*[http://www.newadvent.org/cathen/01303a.htm New Advent Encyclopedia article on Library of Alexandria]
* A [http://www.vor.ru/culture/cultarch38_eng.html Russian culture navigator] account of Durova.
* A [http://chnm.gmu.edu/revolution/d/525/ brief excerpt] from Durova's experiences during the retreat to Moscow in 1812.
*[http://aristarch.org Aristarch.org, Humanist Critique]
* The [http://www.moscow-taxi.com/4children/durov-animal-theater.html Durov Animal Theater] in Moscow, a surviving legacy of the Durov clan.
{{s-start}}
* [http://www.museum.ru/museum/1812/Library/durova/durova01.html Durova's memoir] {{ru icon}}
{{s-bef|before=[[Aristophanes of Byzantium]]}}
* [http://www.cultinfo.ru/fulltext/1/001/007/038/38102.htm Nadezhda Durova] in the [[Brockhaus and Efron Encyclopedic Dictionary]] - {{ru icon}}
{{s-ttl|title=Head of the [[Library of Alexandria]]}}
* {{ru icon}} [http://www.rulex.ru/01050167.htm Biography of Durova]
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| NAME = Durova, Nadezhda
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2012年4月2日 (月) 22:29時点における版

ナジェージダ・ドゥーロワ

ナジェージダ・アンドレーエヴナ・ドゥーロワ (ロシア語: Наде́жда Андре́евна Ду́рова 1783年9月17日 - 1866年3月21日)はアレクサンドル・ドゥーロフ、アレクサンドル・ソコロフ、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・アレクサンドロフという名でも知られる、ナポレオン戦争中にロシアの騎兵隊の一員として活躍し、叙勲された女性である。ロシアの軍人として知られるうちで初めての女性の将校ともなった。ドゥーロワの回想録である「女騎兵の手記(The Cavalry Maiden ))」はこの時代の貴重な文章である。それはナポレオン戦争中の経験を記した若い将校が少ないというばかりではなく、ロシア語で開かれた自伝としても最初期の一つに挙げられるからである。

幼年時代

ナジェージダ・ドゥーロワはキエフの兵舎で生まれた。ロシア軍の少佐(major)であった父は、ナジェージダを部下の兵士に預けるように育てた。粗暴な母親が移動中の馬車の窓から幼い娘を放り出し、殺しかけるという事件がきっかけだった。小さな子供であったころから、ドゥーロワは行軍の号令につかう旗をすべて覚えたり、好んで空鉄砲をもてあそび玩具のかわりにしていた[1]

父が退役した後もドゥーロワは折れたサーベルをきらめかせ、人に馴れぬと思われた雄馬をひそかに手懐けては家族を驚かせた[2]。1801年にはサラプルの判事であったワシーリー・チェルノフと結婚し、2年後には息子のイワンをもうけている。1805年にコサックの武官と一緒になって家を飛び出しているという説もあるが、1807年に24歳となったナジェージダは息子と夫を棄て、愛馬を連れてポーランド槍騎兵(ウワン)に籍を入れた。男装しているときの偽名は「アレクサンドル・ソコロフ」であった。

若き日のドゥーロワ

動物に親しみ、外に出ることを好むドゥーロワはまた熱狂的な愛国者であり、軍人となることを自由になることだと考えていた。そして伝統的な女性の仕事には向いていないと感じていたのだった。自伝には母との不幸な関係についてページが割かれており、逆に父親の描写には暖かみを感じさせ、結婚生活についてはついに何も書かれぬままである。

軍役

1806年から1807年にかけてのドイツ・ポーランド戦役では主要な戦いに従軍している。そのうち2度の戦いで味方の兵士の危機を救っていて、1人目は戦場で落馬して震盪を起こしていた男で、ドゥーロワは激しい砲撃のなかを先駆けて救援に向かい、自軍が周囲まで退却するまで安全を確保していたのだった。2人目も落馬した将校だったが、こちらは無傷だった。迫ってくるフランス軍の竜騎兵に槍を構えたドゥーロワは立ちはだかった。自分がさらに危険になるのも構わず自分の軍馬を将校に貸してやり退却を急がせたのだ。これは軍規に逆らう行為でもあった。

戦役のあいだ家族に手紙を書き、自分がいなくなった訳を説明している。家族のほうでは手立てをつくして娘の場所を探り当てようとむなしくも試みていた。その頃、ツァーリ、アレクサンドル2世の耳には、軍隊にアマゾンがいるという噂がはいり、個人的な興味をもたれていた。ドゥーロワの階級(chain of command)は、その無類の勇気を物語っていた。ペテルブルクの宮殿に呼び出されたドゥーロワは皇帝に強い印象を与え、聖ゲオルギウス十字を授かるとともに軽騎兵隊(ハサー)の尉官(lieutenant)に昇進している。アレクサンドル・ソコロフという名とともに軍には女傑がいるという話はこの頃までにはよく知られるものとなっていた。そのため皇帝は偽名をもとに新たな名として「アレウサンドロフ」を賜っている[3]

ウラジーミル・ガウによる鉛筆画(1937年)

ドゥーロワのうら若い容貌はその栄達の妨げとなった。ロシアの軍人には口ひげを生やすことが求められていた時代に、この女騎兵は16歳の少年のようであったのだ。またウワンからハサーへと転科したのには、ドゥーロワへ恋をした大佐(colonel)の娘を避けるという意味もあった。1812年にナポレオンがロシアに侵攻してくると、再びドゥーロワは武器をとった。身を投じたのはスモレンスクの戦いである。ボロディノの戦いでは砲弾で脚を怪我したが、立て直すため退却を命じられるまで幾日も前線で戦い続けた。1816年に彼女は軍を退いた。最終的な階級は騎兵大尉(ロシア語: Ротмистр)であった[4]

それから20年以上も経って、ドゥーロワはアレクサンドル・プーシキンを紹介される機会をえた。プーシキンは彼女が軍隊にいたときに日記をつけていたことを聞いており、それを回想録として出版するよう勧めている。ドゥーロワは日記に幼少期の出来事を背景としてつけ加え、年を7歳だけ誤魔化した上でそれを「女騎兵の手記(The Cavalry Maiden )」として1836年に出版した。結婚について言及した箇所すべては削られていた。彼女はまた4つの小説を書き、女性の権利を擁護している。ドゥーロワは終生男装を続け、1866年にエラブガで亡くなった。埋葬は軍人として最大限の名誉でもって行われた[5]

伝説

「女騎兵の手記」の初版本(1836年)

ドゥーロワの子孫はその動物を手懐ける才能を受け継いでいた。曾孫にあたるウラジーミルとアナトーリーはロシアのサーカス団で動物の調教師として有名になり、モスクワに「ドゥーロフ動物劇場」を建てている。現在この劇場はナジェージダを祖にもつナターリヤ・ドゥーロワが経営している。

ドゥーロワが男装していたと言う事実は近年関心の的となっている。彼女の息子が結婚の承諾を得るとき、男性的な人格を選んだ母には「お父様へDear Parent」という宛名で手紙を送るほどだった。完全な自由を得るための男装と独身の生活を送ったドゥーロワに性別直行を読み取ろうとする者もいるし、女性的でない装いをしていたことに性的な含みをみる者もいる。ドゥーロワの手記に綴られた文章は当時の道徳観が確かにみてとることができる、貞潔を称揚しているものである。

珍しい女性の軍人による回想録というだけでなく、「女騎兵の手記」はナポレオン戦争中の出来事を若い士官の眼から捉えた確かな史料の一つであり、ロシア文学における最初期の自伝でもある。

ドゥーロワは西欧においていくつかの文化に描かれてきたが、英語圏では1988年にメアリ・フレミング・ジーリンが「女騎兵の手記」を翻訳するまでほとんど無名のままだった。今や彼女は比較文学やロシアの歴史、トランスジェンダー研究などのテーマのもと大学で講義が行われ学術的な対象となっている。

関連項目

脚注

  1. ^ Mersereau, John Jr.; Lapeza, David (1988). Nadezhda Durova: The Cavalry Maid. Ardis. ISBN 0-87501-032-6 
  2. ^ Mersereau & Lapeza, p. 21
  3. ^ (ロシア語) Rulex.ru
  4. ^ (ロシア語) Rulex.ru
  5. ^ (ロシア語) Rulex.ru

外部リンク

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