鴻原森蔵

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鴻原 森蔵(こうはら もりぞう)は、株式会社舞昆のこうはらの社長。

食品新聞(平成6年3月)に「味覚の魔術師」と紹介された。

お笑い番組役者、料理研究家、ラーメン店店長、ラジオ番組パーソンリティ、キノコ研究家、農業、ホタル飼育、古代史邪馬台国研究家、

経歴

高校時代に実家の支店でアルバイトのとき、万年最下位の花園店が10日で売上トップになった。学生時代に北巽のラーメン店でのアルバイト、塩昆布の煮汁(実家の昆布商から持ち出した)をとんこつラーメンの醤油ダレに使った「とんこつ醤油」が大ブームになった。卒業後、家業の昆布商に入店と同時に、「養宜館」(ヨウギカン)と名付けられた船場店の店長になった。

「養宜館」という屋号は、鴻原家の先祖が室町時代淡路細川守護で、大土居城というお城の天守閣の名前を養宜館(ヤギヤカタ)といい、居宅としていた。淡路養宜館は剣道や禅にも使用されて精神修行の道場になっていた。道場が使われていないときは近所のお年寄りが集まる老人ホームとなっていた。

先代の正一は、「他人の飯を喰わせろ」という周りの反対を押し切る代わりに、船場の裏通り絶対に流行らない立地を選んで、養宜館(ヨウギカン)と屋号を付けて店長にした。船場店の店長になるとあまりの暇さに店の裏でコブを炊き始めた。毎日試行錯誤して炊いたコブを試食販売するが、毎日味付けも食材も違っていた。ファンも増えたが、ハズレに当たった客の「まずい」という悪評も多かった。翌三月の農林水産祭り全国たべもの展の品評会で大阪府知事賞を受賞した。

還元麦芽や水飴、ステビアといった食品業界で使う甘味料の味覚曲線「舌に感じ始めてから消えていく時間」が違うことに興味をもち、複数混ぜて甘辛の食感に興味をもった。ラーメン時代のリンゴやパイナップルといった果物のまろやかさとアンコウやアゴといった隠し味を加え、味覚を自在に作り上げることに興味をもち1994年農林水産大臣賞「農林水産祭り全国たべもの展の品評会にて」を最年少の29歳で受賞した。

学生時代きのこのバイオ栽培を勉強していたこともある。古い文化住宅を借りて椎茸の交配で変異株を培養をしていた。冷蔵庫は試験管が並び椎茸の種菌が入っていた。押し入れは無菌室があった。あるとき、彼女と旅行から帰ってきたら部屋中緑色だった。部屋に忍び込んでペンキを塗るイタズラをされたのかと思ってよく見ると、部屋中青カビだらけになっていた。年中エアコンで室温を一定に保っていたが、旅行に行く前に彼女がエアコンを止めたらしい。キノコの研究室が使えなくなり以後研究するのは止めた。

1998年(平成10年)の未曾有の昆布の大凶作に遭遇。健康にいい発酵塩昆布の開発に没頭し、あけびの花びらの野生酵母を取り出し、果物の培地を使って昆布を発酵させることに成功した。

大阪府から研究開発資金を獲得し、大阪府立大学共同研究を経て、発酵食品である塩昆布「舞昆」を開発、商品化した。