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高従誨

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文献王 高従誨
荊南
2王
王朝 荊南
在位期間 929年 - 948年
姓・諱 高 従誨
諡号 文献王
廟号
生年 891年
没年 948年
高季興
年号 乾貞 : 929年
天成 : 929年 - 930年
長興 : 930年 - 933年
応順 : 934年
清泰 : 934年 - 936年
天福 : 936年 - 944年
開運  : 944年 - 946年
天福 : 947年
乾祐 : 948年

高 従誨(こう じゅうかい)は、十国荊南の第2代君主。

後唐明宗天成3年(928年)12月15日、後唐により南平王に冊封されていた高季興が死去すると、高従誨がその地位を継承した。高季興の末年は後唐との関係に亀裂が生じており、に対しても臣下の礼を取っていたが、唐と呉の国力の差を考慮し、高従誨は即位後に後唐に帰順する政策を採用し、後唐から荊南節度使兼侍中に任じられ、長興3年(932年)には渤海王に封じられている。更に後唐閔帝応順元年(934年)には南平王に冊封された。

荊南は地理的に狭く、また兵力も十分でなかったが、当時の交通の要衝であり、毎年各地方から中原へ朝貢する使者が通過する場所であった。高季興、高従誨は使者を襲い財物を略奪する行為を繰り返し、使節を派遣した政権が報復攻撃に出るや奪ったものを返還していた。

その後、後唐、後晋後漢が先後して中原を割拠し、南漢、呉、南唐後蜀がすべて皇帝を称したのに対し、高従誨はそれらの臣下としての立場を堅持し、そのため他国より高頼子あるいは高無頼と呼ばれることとなった。

後漢隠帝乾祐元年(948年)に高従誨が死去すると、尚書令と文献王の諡号が贈られ、その子高保融が地位を継承した。

先代
高季興
荊南国王
第2代:929年 - 948年
次代
高保融