青柳信五郎

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青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明治2年1月7日[1])- 1914年大正3年)11月22日[2][3])は、明治期の地主、政治家衆議院議員

経歴[編集]

越後国三島郡河根川村(新潟県[2]三島郡王寺川村[3]大字河根川[1]を経て現長岡市河根川町)で、大地主[1]・農業[4]、青柳逸庵の五男として生まれる[1]。漢学を修めた[1][2][3][4]。1884年(明治17年)に英学を修め大学予備門[注釈 1]に進んだが[1][4]、家庭の事情で勉学を断念し1890年(明治23年)に帰郷した[1][4]

大寺川村会議員、三島郡会議員、新潟県会議員などを務めた[1][2][4]。自由主義を標榜し、立憲政友会が組織されると入党して新潟県支部幹事に就任し、党勢の拡大に尽力した[1][4]。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から政友会所属で出馬して初当選[1][5]。以後、1908年(明治41年)5月の第10回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[2][3]

国政選挙歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』12頁、『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』8頁では第一高等中学校

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 『大日本人物誌』あ之部30-31頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』12頁。
  3. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』8頁。
  4. ^ a b c d e f 『新撰衆議院議員列伝』270頁。
  5. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』7頁。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』48頁。

参考文献[編集]

  • 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。