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阮廌

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阮 廌(げん ち、グエン・チャイ、Nguyễn Trãi1380年 - 1442年)は、ベトナム後黎朝大越国の建国の功臣、政治家、儒学者、詩人。功績により皇室の姓「黎」を賜ったため黎廌とも。

昇龍(タンロン、現ハノイ)で生まれる。はじめ胡朝に役人として仕えたが、胡季犛による陳朝簒奪の懲罰としてが侵攻してきたことにより胡朝は滅亡、ベトナムは明の支配下に入った。阮廌の父阮飛卿(グエン・フィー・カイン)も明に捕虜として連行された。阮廌はベトナム独立のため藍山(ラムソン)で蜂起した黎利軍に参加して参謀格となり、独立戦争で活躍した。明の支配をはねのけ、1428年黎利は後黎朝を建てて黎太祖となった。阮廌は宰相となって太祖を補佐し、諸制度の整備に努めた。また、太祖に独立戦争の過程で捕獲した明軍の捕虜を解放するよう進言し、明との国交回復にも努めた。しかし太祖の死後、後を継いだ次男の黎太宗の代になると、朝廷内の権力争いが激化する。太宗の扶育係でもあった阮廌は建国の功臣としてその権力を危ぶまれ、故郷に隠居する。しかし、太宗が閲兵式の帰りに阮廌邸に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺犯の罪を着せられ、1442年に三族ともども処刑された。

国民的詩人としても名高く、『抑斎集(ウクチャイ)』などの詩集を残している。また独立戦争の詳細を筆記した『藍山実録』『平呉大誥』なども著した。その他歴史学・地理学・音楽など多くの分野に精通した学者でもあり、今なおベトナム史上の偉人として国民の人気も高い。ホーチミン市(旧サイゴン)には彼の名を冠したグエンチャイ通りがある。