長岡郡 (陸奥国)

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長岡郡(ながおかぐん)は、日本の陸奥国奈良時代から室町時代まであったである。『延喜式』によれば2郷で編成されるごく小さな郡である。現在の宮城県大崎市の一部にあたる。

解説

蝦夷と朝廷の戦いが激しかった宝亀11年(780年)の1月26日に、蝦夷軍が長岡に侵入して民家を焼き、官軍と戦って双方に死者が出たことが知られる[1]。長岡とだけあって、この時点で郡が立てられていたかは不明である。9年後の延暦8年(789年)8月30日に、黒川郡など蝦夷と接する10郡の一つとして長岡郡の存在が確認できる[2]。このとき、戦いの被害を考慮して、長岡など10郡の労役免除が延長された。

室町時代にも存在が認められるが、後に栗原郡遠田郡に分割編入されたようである。

平安時代の郷

  • 長岡郷
  • 溺木郷

脚注

  1. ^ 『続日本紀』巻第36、宝亀11年2月丙午(11日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』五の128-131頁。
  2. ^ 『続日本紀』巻第38、延暦8年8月己亥(30日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』五の440-441頁。

参考文献

関連項目