金光家邦

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金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) - 昭和63年(1988年))は、金光教の二代管長、金光教内では二世管長と呼ばれた。

略歴[編集]

明治21年10月21日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光萩雄の三男。母は赤沢古満(こま)。明治44年嫡系の次男で、管長の後継者とされていた兄金光之照の死去に伴い、父萩雄の死後家督を継ぎ二代目管長となる。

若年のためと、従兄で、金光宅吉の死後四十年以上結界奉仕をし、既に三代金光様と呼ばれていた金光攝胤や、父金光萩雄に比べ、多くの金光教信奉者からの人望も得られず、教団自覚運動とも呼ばれる昭和九年十年事件の結果。昭和16年、管長が世襲から選挙制に変わり、金光攝胤が三代目管長に任命された。

九年十年事件の結果金光教を離れ、立教聖場および金乃神社を本部所在地として、天地金光教を創設した。

家族[編集]

妻は子爵大田原一清の次女錫子である。山下鏡影によると、彼女は非常に細やかな気配りをされる女性であったと、いくつかのエピソードを交えて書かれている。

なお、養子金光公仲華族五辻隆仲の次男[1])は、家邦の死去後金乃神社の祭事を継承し執行した。

脚注[編集]

  1. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年、157頁。

参考文献[編集]

  • 金光教年表(1986年、金光教本部教庁刊)
  • 金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN 4-906088-15-5
  • 鏡影遺稿(1951年、金光教黒忠教会刊)
先代
金光萩雄
金光教二世管長
1888-1988
次代
金光攝胤