金丸定光

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金丸定光
時代 戦国時代
死没 天正10年
別名 助六郎、昌義[1]、道助(法名)[2]
主君 武田信玄勝頼
氏族 金丸氏
父母 父:金丸筑前守(虎義)
兄弟 昌直(平三郎)、土屋昌続秋山昌詮定光土屋昌恒正直秋山親久
土屋昌春(正明)
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金丸 定光 (かねまる さだみつ、? - 天正10年(1582年))は戦国時代武田氏の家臣。金丸筑前守(虎義)の4男で、兄に金丸昌直土屋昌続秋山昌詮、弟に土屋昌恒金丸正直秋山親久がいる。

武田信玄武田勝頼に侍大将として仕えた。長兄の昌直が殺害され、次兄が土屋家に、三兄が秋山家に養子となっていたため、虎義の跡を継いだ。弟の土屋昌恒と共に最後まで武田勝頼に付き従い、弟に先んじて1582年天目山で戦死する。

子に土屋左馬助昌春があり、家康次男の結城秀康に仕え、越前大野城代として3万5千石を領する。土屋昌春は1607年に秀康に殉じたため、その子、土屋主殿忠次は5000石加増される。

脚注

  1. ^ 寛政重修諸家譜
  2. ^ 寛政重修諸家譜