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(ほう)とは、日本中国などで用いられる上衣である。日本においては、朝服の上衣のひとつ。闕腋袍(けってきのほう)と縫腋袍(ほうえきのほう)がある。

日本における袍

縫腋袍の図 1.盤領(あげくび)、2.襴、3.蟻先
闕腋袍の図 1.盤領(あげくび)、2.前身頃、3.裾(きょ)

闕腋袍(欠腋袍)とは、袖付けより下側で脇を縫わず、前身と後身が分かれている袍のこと。また、縫腋袍とは、腋が縫われ、裾周りに襴という裂を横向きにめぐらされている袍のこと。闕腋袍は裾が縫い合わさっておらず、縫腋袍よりも脚を動かしやすい形状である。闕腋袍の和訓は「わきあけのうへのきぬ」、縫腋袍の和訓は「まとはしのうへのきぬ」である。

日本の「朝服」(唐の「朝服」とは同名異物)の祖形になったの「常服」の上衣は、北朝の胡服の系統を引くものだが(『夢渓筆談』ほか)、元来は腋のあいたものであった。中国ではこれを「欠胯」という。北周皇族宇文護が襴をつけることを建言し、中国風に改良されたものが日本で呼ぶところの縫腋袍である(『隋書』ほか)。中国で「縫腋」の名称は一般的でなく、通常「有襴」と称したが、日本では『和名抄』においてすでに「縫腋袍」の名称が見られる。一方で唐代以後、闕腋袍の形式のものも盛んに用いられた。唐代の絵画によると警衛の者や宦官などが闕腋の上衣を用い、文官などが有襴の縫腋袍を用いる例が多いが、すべてがそうとも言い切れない。

日本では養老律令の「衣服令」に親王諸王文官の朝服に「衣」とあるものが縫腋袍、武官の朝服に「襖」とあるものが闕腋袍にあたると見られる。正倉院宝物中の闕腋袍の遺品によれば、腋の開けは裾のほうより50センチ程度開けたものが多い。平安時代後期以後の和様化した闕腋袍が、袖付けより下をすべて開けているのと異なるが、これは元来腋の開けが乗馬等の便宜をはかるためのものであったことをうかがわせる。

平安時代初期以降、公卿は武官を兼ねていても縫腋袍、四位、五位の武官は行幸の供奉や儀式での儀仗に立つときのみ闕腋袍で、普通は束帯にも縫腋袍、六位以下の武官は束帯では常に闕腋袍となった。この四位、五位の殿上人の武官の複雑な装束の使い分けは、藤原定家著とされる『次将装束抄』にくわしい。なお六位蔵人の装束の故実は『助無智秘抄』にくわしいが、武官を兼ねる場合は纔着の欠腋をいつも着用している(文官であれば縫腋袍である)。また、元服以前の者の束帯の袍も闕腋である。

中国における袍

中国における「袍」の字の歴史は古いが、時代により定義に変遷がある。古く、周の故実を記したとされる前漢時代の書『礼記』 玉藻篇には「纊爲繭、縕爲袍、襌爲絅、帛爲褶。」(纊(新しいまわた)を入れた服を繭といい、縕(古いまわた)を入れたのを袍という。また襌(ひとえ)に仕立てた衣服を絅といい、綿を入れないのを褶という。)とある。また唐においては「袍」というのは冬の常服(日本の朝服にあたる)のうわぎで、夏の裏無しは「衫」と称した。