藤田民次郎

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藤田 民次郎(ふじた たみじろう、寛政4年(1792年[1] - 文化10年11月26日1813年12月18日))は、江戸時代後期の一揆指導者[2]

経歴・人物[編集]

陸奥国津軽郡鬼沢村(現:青森県弘前市鬼沢)の農民[2]。鬼沢村の庄屋彦兵衛の三人兄弟の二男として生まれる[1]

弘前藩松前出兵による増税と冷害により農民の不満が募り、文化10年9月28日1813年10月21日)遂に約2000人の農民が弘前城に押し掛け「訴願状」と「連判状」を以て強訴した[1][2]。これを民次郎一揆と呼ぶ[2]

翌日9月29日10月22日)民次郎は捕まり、一揆の首謀者として全責任を負い、同年11月26日12月18日)取上村(現:弘前市取上)において処刑された[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 義民 藤田民次郎 - 弘前市、2018年10月25日閲覧。
  2. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『藤田民次郎』 - コトバンク