藤原長兼

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藤原 長兼
時代 平安時代末期から鎌倉時代初期
生誕 不詳[1]
死没 建保2年(1214年)以降
改名 頼房 → 長兼 → 覚阿(法名)
別名 三条
官位 正三位権中納言
主君 後白河上皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原長方、母:藤原通憲(信西)の娘
兄弟 宗隆長兼時長兼高長隆顕瑜乗願
長資、長朝、長嗣、藤原則子(源通方の室となり源通氏の母)、久我通基の室となった女子
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藤原 長兼(ふじわら の ながかね)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。正三位権中納言三条と号す。日記『三長記』の記者。歌人としても名高い権中納言藤原長方の二男。母は藤原通憲(信西)の娘。本名は頼房。子には長資、長朝、長嗣、源通方の室となった藤原則子、久我通基の室となった女子がいる。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

安元2年(1175年)2月18日、叙爵[2]文治2年(1186年)11月27日、甲斐守に任ぜられる。文治3年(1187年)11月8日、従五位上に昇叙[3]建久元年(1190年)4月26日、中宮権大進を兼ねる。建久2年(1191年)1月5日、正五位下に昇叙[4]。5月2日、父長方の喪から明けて復任。建久6年(1195年)11月12日、蔵人に補される。正治2年(1199年)3月6日、中宮大進を兼ねる。4月1日、権左少弁に任ぜられる。蔵人と中宮大進は元の如し。同月15日、春宮権大進を兼ねる。建仁元年(1201年)8月19日、左少弁に転任。12月22日には蔵人を辞した。建仁2年(1202年)閏10月24日、権右中弁に転任。11月19日、従四位下に昇叙。同月22日、大進は元の如し。28日には氏院別当に補される。建仁3年(1203年)11月30日、従四位上に昇叙[5]元久元年(1204年)4月12日、左中弁に転任し、蔵人頭に補される。4月27日には装束使にも補される。元久2年(1205年)1月29日、正四位下に昇叙。3月9日には修理左宮城使に補される。同月28日、兄宗隆が薨去した。建永元年(1206年)4月3日、右大弁に転任。10月20日、参議に任ぜられる。同日、左大弁に転任[6]承元元年(1207年)1月13日、伊予権守を兼ねる。4月10日、勘解由長官を兼ねる。10月29日、従三位に叙される。承元3年(1209年)4月14日、権中納言に任ぜられる。承元4年(1210年)1月6日、正三位に昇叙。建暦元年(1211年)10月2日、権中納言を辞した[7]建保2年(1214年)2月8日、出家。法名は覚阿。

脚注

  1. ^ 宗隆嘉応2年(1170年)に5歳で叙爵されている。兄と同等の処遇を受けたと考えるならば、長兼の生年は1167年以降1170年頃ではないかと推測できる。
  2. ^ 本名は頼房。従三位盛子の承安2年給による。
  3. ^ 朝観行幸時の院司の賞による。
  4. ^ 殷富門院御給による。
  5. ^ 東大寺供養の行事による。
  6. ^ この年に造東大寺長官に補されるか。
  7. ^ 息男である長資を右少弁に挙任のため。

参考文献