藤原乙叡
藤原 乙叡(ふじわら の たかとし、天平宝字5年(761年) - 大同3年6月3日(808年6月30日))は、平安時代前期の公卿。藤原南家、右大臣・藤原継縄の次男。官位は従三位・中納言。
経歴
延暦3年(784年)従五位下・侍従に叙任し、少納言・中衛少将・兵部大輔・右兵衛督などを歴任する。藤原南家の嫡流であったことに加え、母・百済王明信が桓武天皇の寵姫となったために、延暦年間前半に急速に昇進し、延暦10年(791年)従四位下に昇叙、延暦13年(794年)には参議に任ぜられ34歳にして早くも公卿に列した。
のち、議政官として右衛士督・中衛大将・兵部卿など主に武官を歴任し、延暦19年(800年)従三位、延暦22年(803年)権中納言、延暦25年(806年)中納言に至る。
しかし、平城朝に入ると、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して解官された。これは、天皇が皇太子であったころの宴席で、乙叡は近くに座り酒を吐くという無礼を働いたことがあり、天皇がこれを恨んでいたことが原因とされる。乙叡は赦されて自邸に戻ったのち自らの罪がないことを知り、これを憂いたまま死去したという[1]。大同3年(808年)6月3日死去。享年48。最終官位は散位従三位。
人物
性格は頑なで驕り高ぶるところがあった。また妾を好み、山水の妙地に多数の別荘を建て、女性を伴って連夜宿泊することもあったという。[1]
系譜
脚注
参考文献
- 森田悌『日本後紀(中)』講談社学術文庫、2006年