薛極

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薛 極(せつ ごく、隆興元年(1163年) - 端平元年5月2日[1]1234年5月31日))は、中国南宋の官僚・政治家。は会之。常州武進県の人。

経歴

蔭位により上元県主簿に任官した後、博学宏詞科に及第した。大理寺評事・温州通判・広徳軍知事を務め、桐川に鎮守した。嘉定元年(1208年)以後は中央で楼鑰の推薦により大理寺正・刑部郎官・司封郎中・権右司郎中・刑部侍郎中書門下省検正諸房公事などを歴任し、司農寺卿・権兵部侍郎を拝命された。当時、朝廷の実権者だった宰相史弥遠に迎合し彼の腹心となり、胡榘・聶子述・趙汝述などの3人と共に史弥遠の専横を支える「四木」[2]の一員と呼ばれた。寧宗に常に警戒する心で国政を見守るように奏請し、権刑部尚書・吏部尚書に昇進した。嘉定15年(1222年)、進士出身と同様の待遇を受ける一方、端明殿学士・僉書枢密院事に任ぜられた。宝慶元年(1225年)、参知政事となったのに次いで、紹定元年(1228年)には知枢密院事を兼ねた。紹定6年(1233年)10月、枢密使に就き毗陵郡公に封ぜられたが、その直後に史弥遠が病死し後援者を失い、同年12月には観文殿大学士・紹興府知府・浙東安撫使に左遷されている。

端平元年(1234年)、少保が加わり、和国公に封ぜられたが、致仕してすぐに死去。少師が追贈された。

脚注

  1. ^ 宋史』巻41 理宗紀一 端平元年五月庚子条による。
  2. ^ 薛極を初めとする4人の名前にすべて「木」の字が入っていたことを風刺する別称だった。

参考文献

  • 『宋史』巻419 列伝第178