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煬愍蕭皇后

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蕭皇后(しょうこうごう、566年 - 648年)は、煬帝皇后後梁の明帝蕭巋の娘。

経歴

江南の風俗では、2月に生まれた子は取り上げないと言われていて、蕭氏はその2月に生まれたために、叔父の蕭岌に養われた。まもなく蕭岌夫妻がともに亡くなったため、母方の叔父の張軻の家で養われた。張軻の家は寒貧であったため、蕭氏は自ら労苦を重ねた。隋の文帝楊堅は次男の晋王楊広(のちの煬帝)のために後梁から妃を選ぼうとしたが、占ったところ後梁の公主たちはみな不吉と出た。そこで蕭巋が蕭氏を張軻のもとから迎えて占わせると、ようやく吉と出たので、蕭氏を晋王妃としてとつがせた。

蕭氏は学問を好み、文章を作り、占いにくわしかった。煬帝が即位すると、皇后に立てられた。煬帝が遊幸におもむくたびに、皇后は必ずつき従った。煬帝の失政がひどくなると、皇后は「述志賦」を作って諫めた。618年大業14年)、宇文化及が煬帝を殺害すると、皇后は宇文化及の軍に従って柳城に入った。宇文化及が敗死すると、皇后は竇建徳の手に落ちた。突厥処羅可汗が皇后を迎えるべく洺州に使者を送ってくると、竇建徳は突厥に送りとどけた。630年貞観4年)、突厥がの北伐軍に敗れると、皇后は長安に入った。648年(貞観22年)、死去した。

伝記資料