華頂宮博忠王
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月24日)は日本の皇族、海軍軍人。
概要
博恭王が華頂宮当主であった時の王子で、博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり僅か2歳で華頂宮の家督を継承する。
海軍兵学校を卒業し海軍中尉に進む。1923年軽巡洋艦五十鈴乗組であった時に病に倒れ、佐世保海軍病院に入院する。
1924年(大正13年)3月博忠王が薨去。王には妃・王子ともに居なかった為、華頂宮家は断絶する。この2年後の1926年(大正15年)12月に弟宮の博信王が臣籍降下するにあたり、華頂の姓を下賜され華頂宮の祭祀を継承する。
身長が六尺一寸という、当時としては異例の長身だったという[1]。
血縁
経歴
1902年(明治35年)1月26日 | 誕生 |
1904年(明治37年)1月15日 | 華頂宮継承 |
1921年(大正10年)7月16日 | 海軍兵学校卒業・海軍少尉候補生・八雲乗組 |
1922年(大正11年)1月 | 貴族院議員(皇族議員) |
1922年(大正11年)5月25日 | 海軍少尉 |
1922年(大正11年) | 陸奥乗組 |
1923年(大正12年)3月30日 | 海軍砲術学校普通科学生 |
1923年(大正12年)7月12日 | 海軍水雷学校普通科学生 |
1923年(大正12年)12月1日 | 五十鈴乗組 |
1924年(大正13年)3月19日 | 海軍中尉、大勲位菊花大綬章受章 |
1924年(大正13年)3月24日 | 薨去 |
脚注
- ^ 石川桂郎『残照』角川書店、P.209