荒木如元

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荒木 如元(あらき じょげん、明和2年(1765年) - 文政7年閏8月5日1824年9月27日))は、江戸時代末期の長崎派画家。若杉五十八とともに長崎二大洋画家と称される。

本姓は一ノ瀬氏。は直忠、通称善十郎のちに改め善四郎。如元は長崎の人。

略伝[編集]

一ノ瀬氏に生まれたが、荒木元融の養子となり[1]荒木に改姓。元融を師として画を学び兄養子融思からガラス絵の技を嬉々として学んだ。分限帳によると天明元年(1781年)から同7年(1787年)の間に、融思が石崎家の家督を継ぐことになったため、急遽荒木家3代当主として唐絵目利職を引き継ぐ。ひたすら本格的な洋画制作に傾注したという。しかし、寛政3年(1791年)までに、理由は不詳ながら短い期間で荒木家の家督を後継に譲って一ノ瀬姓に復す。

自らは町絵師となって洋画制作に励み、長崎版画の下絵やガラスの絵付などで生計をたてた。蹄斎北馬が描いた狂歌摺物「紅毛男女額絵」(1枚、神戸市立博物館蔵)の画中ガラス絵下辺には「ARAKI ZEZURO」とあり、如元によるガラス絵が江戸にまで知られていたことがわかる。

今紺屋町にて没する。享年60。墓所は海雲山晧台寺後山。法名は安山了養信士。

作品[編集]

挿絵[編集]

文献資料[編集]

  • 『崎陽画家略伝』
  • 渡辺秀実『長崎画人伝』
  • 『瓊浦画工伝』(文化元年 春孔撰 文化10年 今井孝寛増訂)

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 59頁。

出典[編集]