織部流温知会

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日本一窓の多い小堀遠州の茶室「擁翠亭」
太閤山荘 入口

織部流温知会(おりべりゅうおんちかい)は、織部流の一つで、 平成29年(2017) に宮下玄覇により、復会された武家茶道の一派。

東京には都内を拠点とする故新会が存在する。機関紙「金甫」(古田織部春屋宗園より授けられた道号)の編集・発行を行う。関連団体に古田織部流茶湯研究会がある。本部教室は京都の太閤山荘にあり、その中に小堀遠州作で日本一窓が多い後藤覚乗茶室擁翠亭」(十三窓席)がある。稽古場は、京都、兵庫、名古屋、神奈川、東京にある。

歴史

流祖は古田重然(玄庵印斎金甫宗屋)である。織部の門下には、遠州流の祖である小堀遠州上田宗箇流の祖である上田宗箇らがおり、両者とも現在も武家茶道の代表的存在として知られている。江戸時代、福岡藩には織部門下の土屋宗俊が茶道として出仕しており、その後、石原宗林(不羨庵)ー槙艮 山(重賢)ー百野湖月ー百野宗湖ー槙宗空(直村、釣寂軒)と織部流茶頭が続いた。江戸時代中期、織部流茶道を継承していた福岡藩の茶頭 槙宗空(直村、釣寂軒)が、豊後岡藩にいた古田織部血縁の古田淵黙から派遣された古田(中川)正友に茶法を伝授し淵黙に伝えられ、その子孫織部流11世古田宗関(重名)は、明治初めに大分県から東京へ移り、織部流を教授し、岡崎淵冲(惟素)らに伝えた。古田宗関は、明治31年(1898年)に「茶道温知会」を創設し、衰退する茶道の普及を志すも、「茶道温知会」を引き継いだ娘で岡崎淵冲(惟素)の姉弟子の素春(咲)が、大正6年(1917)に没したため「茶道温知会」は消滅した。その100年後の平成29年(2017)に、宮下玄覇により織部流を実践する目的のもと復会し、現在の織部流温知会となる。また古田織部四百年遠忌にあたる平成26年(2014)には、古田織部美術館の設立に伴い、宮下玄覇により創設された織部流の研究・普及を目的とする団体である古田織部流茶湯研究会が発足した。その為、福岡藩の茶堂から豊後岡藩の家老家に伝わった織部流を実践する唯一の団体である。

点前の特徴

点前は、豊後岡藩士・古田家より岡崎淵冲に伝わった織部流であり、秋元瑞阿弥が昭和になって創始した「式世織部流」とは異なる。古田織部流茶湯研究会の点前は、宮下玄覇による織部の茶の湯を引き継ぐ武家茶道諸流派の見聞と、古田織部の研究で培われた知見に基づくものとなっている。そのため現在では失われた当時の点前や約束事などが取り入れられ、武家茶道の本流である織部流の当時の形を再現したとされる。

エピソード

参考文献

  • 宮下玄覇『古田織部の世界』宮帯出版社 
  • 古田織部四百年忌図録 宮帯出版社 
  • 織部流茶湯機関紙『金甫』宮帯出版社 

出典

  1. ^ 第3回 織部賞 受賞者発表 【受賞者】映画『嘘八百 京町ロワイヤル』製作委員会 古田織部美術館ホームページ 2022年7月26日閲覧
  2. ^ 「茶道」動画 ふなっしーオフィシャルサイト 2022年7月26日閲覧

関連項目

外部リンク