紀昀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ささら (会話 | 投稿記録) による 2012年5月27日 (日) 11:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (image)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

紀昀

紀 昀(き・いん、1724年6月15日 - 1805年2月14日)は中国朝の官吏・学者。『四庫全書』の総編集にあたる。

略伝

は暁嵐。号を石雲という。河北省は河間府献県の富豪の家に生まれる。1747年に主席で郷試に合格、1754年に第5位で進士に合格し、翰林院編修から侍読学士に出世した。しかし1768年に姻戚で地方官を務めていたものに失態があって、朝廷にあった彼が事前に内報したために罪に連座したものとされ、ウルムチ(現・新疆ウイグル自治区)の辺境守備隊付として左遷された。1771年に赦免され、翰林院編修に復帰した。

1773年から始まる四庫全書をつくるという事業の総纂官に任命され、その後は侍読学士・内閣学士を歴任し1805年には礼部尚書協弁大学士に就いたが、同年2月に亡くなった。朝廷から「文達」というを授けられたため、紀文達公とも呼ばれる。

紀昀は四庫全書の総纂官として権力を振るい、学者たちが執筆した提要のすべてに目を通し、ほとんど全文を自分で書き直してしまったこともあるという。『四庫提要』は紀昀の著作といってよいほど、すみずみまで彼の手が加わっているとも評される。思想界の中心を占めていた宋学には反感を持ち、あまり当時認められていなかった戴震を四庫館に採用したことなどは、紀昀の視野の広さを示す。

乾隆帝に寵愛された名文家でありながら、書いた詩文の類はいっさい保存しようとせず、学術論文は一切書いていないことなどは、後世の学者に批判されることになった。

志怪稗史(怪談奇談)を集めた『閲微草堂筆記』が残されている。

日本語訳