石田信次

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石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11日 - 1960年10月31日)は、明治・大正・昭和時代の日本教育者

来歴・人物[編集]

新潟県三島郡与板町岩方(現長岡市)出身。三島郡立与板高等小学校(現長岡市立与板小学校)を経て1906年新潟師範学校卒業後、小学校教諭となり新潟県内各校に赴任した。

1922年、開校して間もない新潟市立万代尋常小学校(現新潟市立万代長嶺小学校)校長に就任した。学習以前の問題が根深く存在していた当時の同校に於いて、7年間にわたって能力別編成による授業などの「万代教育」といわれる教育活動に取り組み、大正期の新教育実践者として知られた。その後は現在の新潟市立沼垂小学校新潟市立白山小学校校長を務めた。

退職後、1941年から1960年まで私立新潟女子工芸学校(現新潟青陵高等学校)校長に就任し、学校発展の礎を築いた。また、新潟県選挙管理委員長等の要職を歴任した。

関連項目[編集]