石井常永

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石井 常永
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 不詳
死没 寛永11年10月12日1634年12月2日
別名 新八郎、三右衛門、新五左衛門
戒名 芳宅日永
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂勝茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井常忠、母:石井忠次の娘
養父:石井忠修
兄弟 信易信忠常永石井正国室、
石井忠正室、石井四郎兵衛
正室:石井忠時の娘
常良
養子:昌広(川副氏)
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石井 常永(いしい つねなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏および佐賀藩鍋島氏の家臣。佐賀藩士石井新五左衛門家(家禄375石)初代当主。

通称は新五左衛門尉。佐嘉郡飯盛城主で、龍造寺隆信の御馬廻衆をつとめた石井刑部少輔常忠の三男。母は石井石見守忠次の娘。

佐賀藩鍋島直茂陽泰院夫妻の甥で、初代藩主勝茂の従兄にあたる。

なお、2代当主藤左衛門常良の妻は、佐賀藩家老太田茂連と、陽泰院の娘(瑞光院)の間に生まれた。常良の嫡男新五左衛門良房は、陽泰院の曾孫にあたり、陽泰院の血脈を受け継いだ家である。

永禄6年(1565年)6月、龍造寺隆信は、肥前国三根郡中野城馬場鑑周を攻めたが、隆信の信任が厚かった母方の伯父の石井源次郎(隆信の馬廻四将の一人)戦死した。隆信は、源次郎の死を惜しんで、常永に源次郎の名跡を継ぐように命じたと伝わる。

系譜[編集]

石井新五左衛門常永ー②藤左衛門常良ー③清左衛門良房ー④新五左衛門貞房ー⑤新五左衛門忠久ー⑥新五左衛門忠英ー⑦新八忠貞ー⑧新五左衛門忠充ー⑨新五左衛門忠温(入江家からの養子)ー⑩新八郎忠程