相良知安

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「相良知安先生記念碑」

相良知安(さがらともやす、1836年 - 1906年)は、佐賀藩出身の蘭方医

略歴

佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学ぶ。明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用される。

明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯でウィリスを推していた薩摩閥の恨みを受け、疑獄事件に関わった汚名を着せられ収監された。石黒忠悳らの働きかけにより出獄が適ったが、後年は頑迷な性格により世に受け入れなくなり、官界を去り晩年は、妻を郷里において芝区神明町(当事は貧民窟として知られた)の長屋に愛人と同棲し、生活に困窮し、筮竹を片手に遊女相手の街の占い師に身を窶したといわれる。64歳で、勲五等瑞宝章を授与される。

1906年インフルエンザにかかりひっそりと死去した。死後、明治天皇の勅使が「祭粢料」を持って陋宅を訪れた。近所の人々は、長屋に住むうらぶれた老人がかつての政府の顕官であることを知り、驚いたとされる。

墓は佐賀市寺町城雲院に建てられた。戒名は鉄心院覚道知安居士。

東京大学池之端門看護師寮付近に、石黒忠悳の題額、入沢達吉の選文による碑(「相良知安先生記念碑」)が人知れずひっそり建っていたが、東大病院の創設150周年記念事業の一環として、新入院棟Aの玄関付近に移転した。

関連項目

我が国近代医学制度創設の功績者 相良知安