甄阜

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甄 阜(しん ふ、? - 23年)は、中国前漢末期から代の武将・政治家。

事跡[編集]

姓名 甄阜
時代 前漢時代 -
生没年 ? - 23年地皇4年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 副校尉〔前漢〕→前隊大夫〔新〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 平帝孺子嬰王莽
家族・一族 〔不詳〕

王莽配下の人物。最初は匈奴との外交事務に関与していた模様である。まず、中郎将韓隆を長とする匈奴への使節団に、甄阜は副校尉として加わり、次いで中郎将王駿を長とする使節団にも同じ肩書で加わっている。新が創設された後の始建国元年(9年)にも、甄阜は五威将王駿を長とする匈奴への使節団に参加した。

その後、時期は不明だが、甄阜は前隊大夫(新制の南陽太守)に任命され、地皇年間において反新勢力の摘発・鎮圧に従事した。李通が反新活動に参加したことから、宛の名家である李氏一族を尽く処刑したり、反新軍に敗北して棘陽(南陽郡)から撤退した県長岑彭の母を拘束したりするなど、苛烈にして強迫的な手法が目立つ。地皇3年(22年)末、宛を目指して進軍してきた劉縯王匡らの反新軍を、属正(新制の都尉)梁丘賜と共に小長安聚(南陽郡育陽県)で迎撃した。甄阜はこれに勝利し、さらに劉縯の一族数十人も殺害している。

地皇4年(23年)1月、甄阜・梁丘賜は、勢いに乗って南へ向けて追撃する。甄阜らは輜重を藍郷(南陽郡棘陽県)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水を渡り、沘水に臨んで両川の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷いた。しかし劉縯は、王常率いる下江軍を味方に引き入れ、反撃に転じる。別働隊に藍郷の輜重を奪わせた上で、劉縯らは甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けた。逃げ場を失っていた甄阜・梁丘賜軍は、次々と黄淳水に落ち込んで2万人余りの死者を出し、甄阜・梁丘賜も混乱の中で戦死したとされる。

参考文献[編集]

  • 漢書』巻94下列伝64下匈奴伝下
  • 後漢書』列伝4斉武王縯伝
  • 同本紀1上光武帝紀上
  • 同列伝5李通伝
  • 同列伝7岑彭伝

関連項目[編集]