物部贄子

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物部 贄子(もののべ の にえこ、生没年不詳)は、古墳時代飛鳥時代豪族あるいは大連物部尾輿の子で、物部守屋の弟。石上贄古(いそのかみのにえこ)とも言う。

経歴[編集]

先代旧事本紀』「天孫本紀」には「物部石上贄古連公」とあり、宇摩志麻治命の14世の孫で尾輿の子とされている。異母妹の御井夫人を妻として、4人の子が存在する。

日本書紀』巻第二十によると、日羅の来日に関与しており、敏達天皇12年(583年)、天皇の命により大伴糠手子阿倍目とともに日羅の元を訪ね、国の政治について諮問している。日羅暗殺後、天皇の命により、彼を小郡の西のほとりの丘の前に埋葬し、さらに、糠手子の天皇への進言により、妻子・水夫らを石川百済村・石川大伴村に分散させて住まわせたという[1]。なお、糠手子と目はマヘツキミであることから、のちに蘇我氏が複数人のマヘツキミを輩出したのと同じように、物部氏も複数人のマヘツキミ(物部守屋と贄子)を輩出していたと考えられる[2]

その後のことについては、『旧事本紀』によると、推古天皇の御世に、大連として石上神宮を祀った、とある。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』敏達天皇12年是歳条
  2. ^ 篠川賢『物部氏の研究【第二版】』(吉川弘文館、2009年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]