滝川元長

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滝川 元長(たきがわ もとなが、寛文2年(1662年) - 延享4年12月2日1748年1月2日))は、江戸時代旗本滝川征盛の長男。母は安藤正珍の娘。初名は征長。別名は忠隆、忠興。通称は十大夫、彦次郎。官位は従五位下、讃岐守、のちに播磨守。妻は中山直守の養女。弟に須田資生(須田為春養子)。子に黒田直基(長男)、伊東祐連の妻。

寛文7年(1667年)7月5日に父の跡を相続する。小姓組、使番、目付、桐間番頭などを歴任する。主な略歴としては、将軍徳川吉宗の倹約令に反抗する尾張藩徳川宗春への上使として、目付の石河政朝とともに江戸藩邸を訪ねる[1]などした。しかし、2度自分の屋敷より火事を起こし、その都度、出仕を差し止められた。

脚注[編集]

  1. ^ この出来事は実際にあったかどうかは疑わしい。5月は宗春の兄松平義孝の制中であり、叱責の可能性は殆ど無い。9月だとすると、叱責するまでの期間が長すぎて意味を成さない。ただし享保17年(1732年)9月に尾張藩邸に訪れた可能性はある。[要出典]『徳川実紀』によれば11月に、徳川宗春清戸に放鷹に行き、そのときの上使として滝川元長が赴いている。つまり、元長は9月末に1か月後に控える鷹狩の上使としての挨拶をしに尾張藩邸を伺った可能性が高いからである。[要出典]この時、同道した石河政朝は尾張藩出身で、前家老石河正章と御附家老竹腰正武の2人は実兄である。つまり政朝は尾張藩に詳しく親しき者も多数居たので、元長は同じ目付として政朝に同道してもらったのではないだろうか。叱責があったとする資料は二次資料三次資料なので注意を要する。[要出典]