源師隆

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源 師隆(みなもと の もろたか、承保2年(1075年) - 長承3年(1134年))は平安時代後期の貴族村上源氏大納言源師忠の子。官位正四位下大蔵卿

経歴

中右記』には、寛治2年(1088年)9月16日に摂政藤原師実の春日社参詣の際に源少将として名が見える。同年11月当時には六位だった。

寛治4年(1090年)には左近衛少将として8月の放生会に名がある。同年中には五位に叙爵されている。寛治6年(1092年従四位下に叙される。中宮権亮を経て、寛治7年(1093年正四位下に陞叙。寛治8年(1094年)には左馬頭に任ぜられる。同年5月の五巻の日には捧物を持って参会しているのが確認できる[1]

嘉保3年(1096年)の永長の大田楽の際には小鼓を演じたという[2]。11月には令子内親王相嘗祭神楽が行われた際、それに参会している[3]永長2年(1097年)正月に讃岐権守を兼任する[4]承徳2年(1098年)に、藤原師通興福寺に参じた際には参人として名がある[5]

大治4年(1129年大蔵卿に任ぜられるも、長承3年(1134年)に卒去享年60。師隆は舞人としても活躍。寛治5年(1091年)の藤原師実賀茂参詣[6]、永長2年(1097年)の行幸時、康和4年(1102年)3月の試楽、嘉保2年(1095年)の行幸などでは舞人として参加[7]している。また、康和4年(1102年)には拍子合を行っている[8]

官歴

  • 寛治の初め:左近衛少将、五位
  • 寛治6年(1092年)2月29日:従四位下、9月7日:中宮権亮
  • 寛治7年(1093年)3月22日:正四位下
  • 寛治8年(1094年)7月13日:左馬頭
  • 永長2年(1097年)正月30日:兼讃岐権守
  • 大治4年(1129年):大蔵卿

系譜

脚注

  1. ^ 中右記寛治8年5月4日条
  2. ^ 『中右記』嘉保3年7月12日条
  3. ^ 『中右記』嘉保3年11月6日条
  4. ^ 『中右記』永長2年正月30日条
  5. ^ 殿暦承徳2年2月9日条
  6. ^ 後二条師通記』寛治5年4月22日条
  7. ^ 『中右記』康和4年3月9日条
  8. ^ 『中右記』康和4年3月16日条