板倉松太郎

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板倉 松太郎
生誕 1862年
三河国碧海郡大浜村乙立
(現・愛知県碧南市浅間町)
死没 1924年(63歳)
職業 教育者
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板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年 - 1924年)は、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身の教育者。第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)校長(1887年-1900年、1906年-1921年)。板倉は当時の碧海郡の教育界の中心的な存在であった[1]。1919年(大正8年)に勲八等瑞宝章受章。

経歴

青年期

文久2年(1862年)、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身[2]。1881年(明治14年)に愛知県師範学校を卒業し、第五十五番小学棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)の教員となった[2]。1886年(明治20年)に新川に架かる無名橋が現在地に移設された際には、板倉や岡本八右衛門らが元禄橋と命名している[3]

新川小学校長時代

1887年(明治21年)には若くして第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)の訓導兼校長に就任し、1891年(明治24年)には新川尋常高等小学校(現・碧南市立新川小学校)の訓導兼校長となった[2]。1900年(明治33年)には碧海郡西春日井郡幡豆郡の3郡の視学官(教育行政官)となり、教員の指導や助言に当たった[2]。1906年(明治39年)には再び新川尋常高等小学校の校長となり、さらに新川尋常高等小学校に併設された農商業補習学校でも青年の教育にあたった[2]

1911年(明治44年)には材木商であり新川町長だった岩田以手紙に対して文庫の設立を要請[4][5]。1912年(大正元年)11月1日には、板倉の篤志や新川尋常高等小学校の卒業生からの寄付金を基にし、新川尋常高等小学校附設新川町立新川文庫を設立した[6]。板倉は初代文庫長にも就任[7]。設立の嘆願書によれば、児童生徒はもちろんのこと広く新川町民の利用も想定しており、高等科の卒業生からは書籍も寄贈されている[4]

1919年(大正8年)には教育活動の功労として勲八等瑞宝章を受章した[2]。新川の精界寺境内の墓地には人造石で知られる服部長七の墓と功績碑があるが、功労碑の碑文は1920年(大正9年)に板倉が記した[8]。1921年(大正10年)5月に新川尋常小学校の校長を退任し、新川町によって功労者として表彰された[2]。1924年(大正13年)に63歳の生涯を閉じた[2]

死後

板倉の死後、その蔵書は新川町立新川文庫に加えられた[2]。1924年の閲覧人員は1358人であり、1日に平均すると5.2人だった[1]。1925年(大正14年)の新川町立新川文庫は、経費544円、図書購入費350円で運営され、新川尋常高等小学校長の長坂松二が館長を務めていた[1]。1948年(昭和23年)に新川町・大浜町棚尾町旭村が合併して碧南市が発足すると、9月15日には新川町立新川文庫を基にして碧南市立図書館が設立された[6]。新川町立新川文庫から碧南市立図書館には6588冊の図書が移管されている[4]。明治初期に建設された建物を転用した碧南市立図書館は現在の鶴ケ崎区民センターの場所にあったが、1983年(昭和58年)の火災で焼失している[5]

栄典・授章・授賞

位階
勲章等

脚注

  1. ^ a b c 碧南市史編纂会 1970, p. 357.
  2. ^ a b c d e f g h i 碧南事典編さん会 1993, p. 28.
  3. ^ 新川橋 トボトボ歩く碧南市
  4. ^ a b c 碧南事典編さん会 1993, p. 207.
  5. ^ a b 山神社と鶴ヶ崎区民館 トボトボ歩く碧南市
  6. ^ a b 図書館の歩み 碧南市民図書館
  7. ^ 碧南事典編さん会 1993, p. 185.
  8. ^ 服部長七の墓と功績碑 碧南市住吉町精界寺境内 日本石灰協会
  9. ^ 『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。

参考文献

  • 碧南市史編纂会『碧南市史 第二巻』碧南市、1970年。 
  • 碧南事典編さん会『碧南辞典』碧南市、1993年。