李陵容

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李 陵容(り りょうよう、? - 隆安4年7月4日400年8月9日))は、中国東晋簡文帝の側室。子は孝武帝司馬道子・鄱陽公主。

生涯

出自は不明であるが、褐色人種とされる。奴隷として織室で働いていた。背が高く、色が黒い。織室の者から「崑崙奴」と呼ばれた。

会稽王司馬昱は、男子がみな夭折して後継ぎが育たないことに悩み、術士を呼んで妊娠しやすい女を探した。術士は陵容を見て「彼女です」と言った。司馬昱は、子孫繁栄を願って陵容を側室として迎え入れる。予言通りに2男1女を出産した。

子である孝武帝の即位後、淑妃から夫人、後に皇太妃となった。太元19年(393年)、皇太后となる。隆安元年(397年)、孫の安帝の即位に伴って太皇太后となる。

隆安4年(400年)7月、建康の含章殿にて崩じた。文皇太后と諡し修平陵に葬らせた。