李陵容
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李 陵容(り りょうよう、永和7年(351年)- 隆安4年7月4日[1](400年8月9日))は、中国東晋の簡文帝の側室。孝武帝の生母。
生涯
[編集]出自は不明であるが、褐色人種とされる。奴隷として織室で働いていた。背が高く、色が黒い。織室の者から「崑崙奴」と呼ばれた。
会稽王時代の簡文帝は、正室の王簡姫との間に司馬道生・司馬兪生を産んだが、道生の操行が悪かったために母子は廃嫡された。残りの4人の息子もみな早世した。その後、姫妾らごとに妊娠できなかったのが10年近くなると、会稽王は占いをした。占い師は「後房のある女性が2人の公子を産みそうですが、その一人はついに晋室を盛んにするつもりです」と語った。数年後、術士に愛妾を調べさせたが、相応しい人物を見つけることができず、女婢まで訪ね歩かせた。術士は織室にいた陵容を指目し、陵容は会稽王の側室となり2男1女を産んだ[2]。
子である孝武帝の即位後、淑妃から夫人、太元12年(387年)に皇太妃となった[3]。太元19年(394年)8月、皇太后となる[4]。
隆安元年(397年)2月、孫の安帝の即位に伴って太皇太后となる。
隆安4年7月壬子(400年8月9日)、建康の含章殿にて50歳で崩じた。文皇太后と諡され、修平陵に葬らせた[5]。
子女
[編集]- 司馬曜(孝武帝)
- 司馬道子(会稽王)
- 鄱陽公主
脚注
[編集]- ^ 『晋書』巻10, 安帝紀 隆安四年七月壬子条による。
- ^ 『晋書』巻32, 孝武文李太后伝
- ^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 太元十二年四月戊辰条による。
- ^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 太元十九年八月己巳条による。
- ^ 『建康実録』巻10, 晋下 隆安四年条による。
伝記資料
[編集]- 『晋書』巻32 列伝第2 后妃下