李重潤

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李 重潤(り・じゅうじゅん、683年 - 701年)は、中国の中宗李顕の嫡長子。初名を李重照と称したが、武則天忌諱して李重潤と改名した。

中宗と韋皇后の間に生まれ、誕生直後に皇太孫に封じられた。しかし中宗が廃立され、房州に流されると、李重潤は廃府された。聖暦年間に中宗が皇太子に復位すると、李重潤は邵王に封じられている。701年(大足元年)、永泰郡主李仙蕙、魏王武延基とともに張易之張昌宗に関し謀議を行ったとして武則天により自殺を命じられた。

706年に中宗が即位すると、自殺に追い込まれた李重潤を悼み、懿徳太子と追封し、皇太子の格式で改葬し、乾陵に埋葬した。また薨去に際し、正妃を娶っていなかったため、中宗は国子監裴粹の早世した娘との冥婚を行い合葬している。