朴巌

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朴巌
各種表記
漢字 朴巌
発音 パク・アム
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朴巌(パク・アム、生没年不詳)は、高麗王朝亡命した呉越国文士[1]

人物[編集]

呉越国は地理的に不利な条件であるにもかかわらず、を挟んだ統一新羅後百済などと外交交渉をおこなっていた。かかる状況は高麗王朝に呉越国との交渉を志向させた。高麗王朝は呉越国と関係を築くため、太祖2年(919年)に呉越国に金立奇を派遣した[2]923年、朴巌は高麗王朝に亡命した[3]

呉越国から高麗王朝に渡来した人士の少なくなかったことは、『高麗史』巻一「太祖本紀」太祖二年九月の条に、呉越国の文士の酋彦規の来往を伝えた記事があることからも窺える[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 三上次男『日本・朝鮮陶磁史研究』中央公論美術出版〈三上次男著作集5〉、1989年、270頁。ISBN 4805514345 
  2. ^ 윤명철 (2014年3月31日). “해양세력 왕건과 고려의 건국”. 한국 해양사 
  3. ^ 深津行徳『『三国史記』 記載対中国関係記事について : その検討のための予備的考察』学習院大学史学会〈学習院史学 27〉、1989年3月20日、33頁。