本庄宗正

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本庄 宗正(ほんじょう むねまさ、天正8年(1580年) - 寛永16年8月29日1639年9月26日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の武士。通称は太郎兵衛、初名は宗利。児玉党本庄氏の流れを自称しているが、疑わしい点が大いにある。姓は有道氏。父は本庄宗道?。長男に道芳、次男に宗資、長女に桂昌院

自称・武蔵国児玉党系本庄氏

信憑性は低いが伝承によると、児玉弘行の5世孫である太郎宗長(そもそもそのような人物はいない)が、武蔵国児玉郡本庄に住み、地名を氏とした(本庄という地名は後世生じたものである)。本庄太郎宗長は足利義満に仕えたとあるが、児玉党の本宗家である本庄氏は南朝に属して戦ったのが史実である。そして、その後も足利氏とは対立関係にあり、宗正の一族が本庄氏祖の伝承を自分たちの都合の良いように創作したことは否定できない。そもそも関東の本庄氏は足利氏に所領を没収され(あげく児玉党の菩提寺を焼き打ちされ)、上杉氏に所領を与えられたため、足利氏とは浅からぬ因縁にあり、その流れから足利に属すことはなかった。明らかに嘘八百を並べた伝承(時代考証が矛盾だらけ)となっている。その後、三好氏に味方して郡代となり、次(宗長の子息の代)に大和の郡代となり、天正11年(1583年)になると摂津国に移住した。その孫である宗正は寛永16年(1639年)8月29日に60歳で没したと伝えられている(『日本人名大辞典』を一部引用)。

出自考察

宗正とその祖父とされる本庄宗長は、伝承から考察して、児玉庄氏ではなく、備中庄氏の流れのものと考えられる。つまり、関東人ではない。西国で本庄を称した後、どうした理由からか、武蔵国本庄の出自と偽ったものと見られる。そもそも本庄氏が児玉郡の北堀村に居館を築いたのは鎌倉時代であり、その後に本庄という地名が生じた。つまり、本庄村は本庄氏の後に生じた村名であり、地名から氏としたものではない(厳密には、時家の末裔である実忠が北堀の北部である本庄村を開拓した)。このことから考えても、関東氏族の歴史について、あまり詳しくなかったにもかかわらず、本庄氏一族に由来があると自称した一族だったことがうかがえる。

伝承自体が無理矢理の観が否めない。弘行の5代後が本庄氏を称したのは事実であるが、それは本庄時家のことである(そして生きた時代も鎌倉時代前期)。それも系図上での話であり、最新の系図研究から、時家は弘行の4代後の人物とされ、宗正の一族が後世の系図を参考に出自を創作したことが丸分かりである。太郎宗長は、児玉党の党首である庄太郎家長と関連付けて出自を創作したものと考えられるが、家長とは生きた(活躍した)時代が違いすぎる。最終的には、宗長は本庄の人間ではない可能性の方が高い。本家本元の本庄氏が小田原征伐で没落した史実を見ても、彼らが関東の本庄氏一門ではないことも明らかである。ルーツを関東武士に求め、家の威厳を高めようとした可能性が高い一族である。中世前期、西国に移った庄氏は藤原姓を名乗った。そうした方が西国社会では地位が向上できるためである。宗正の一族は、その逆であり、先祖返りの如く、関東にルーツを求め、姓も本来の有道を称したものと見られる。

複数ある本庄氏の系図の一つに、本庄宗正の先祖を庄頼家(庄家長の嫡男)とするものがある。頼家は嫡男を作る前に一ノ谷の戦いで討死にしたと伝えられていることから考えても、後世に創作された系図であるということは確定的である。こうした、創作された伝承、創作された系図などから考察しても、宗正の一族は関東の本庄氏一族とは関係のない一族であることが分かる。

備考

  • 中世前期、武蔵七党中、最大にして最強の武士団と称された児玉党の本宗家が本庄氏であり、南北朝時代になると弱体化し、戦国時代になると没落した。没落した氏族とはいえ、名家であることに変わりはなく、宗正の一族が本庄氏にルーツを求めるのも納得がいくことではある。しかし、没落したことをよいことに、系図を捏造したことは疑いようのないことである。
  • 南北朝時代、関東の本庄氏は薊山合戦によって児玉党の重要な菩提寺である西光寺(児玉氏の菩提寺)と宥荘寺(庄氏の菩提寺)を焼失した。結果として、本家本元の本庄氏の系図は謎が多い。これをよいことに、宗正の一族は頼家の子孫=児玉党の直系の嫡流を称した。結果として、後世では本庄氏に対する諸々の誤解も生じた。
  • 通字が「宗」となっているが、児玉庄氏にも備中庄氏の方にも「宗」を通字とする一族が見られないことから、先祖が庄氏かどうかも怪しい。系譜未分類の一族ということになり、本当に児玉党に関連した氏族かも疑わしいのが現状である。「宗」の通し字から考察した場合、能登国の守護職だった本庄宗成の一族と関係する氏族ではないかとも考えられる。時代的に違和感はなく、義満の臣であり、日野家の家人であったことからもそう考えられる。その場合、なぜ児玉党系本庄氏の出自の者であると偽る必要があったのかが問題となる。